風雨来記

気持ちが落ち込んだときには風雨来記(フォグ).相馬の旦那の話を聞いていたら気持ちが復活してきた.

2001年以来こまめに進めてきて,ようやく斉藤姉妹編を読了.本ゲームでは北海道を好き勝手に走り回ることが出来るわけであるが,釧路周辺を旅している斉藤姉妹と約束通りに会おうとすると,進路に制限を受けなくとも自ら釧路から離れた場所には行かなくなる.その上で最後,遠く離れた道北へ舞台が飛ばされるため決着の地らしい雰囲気が感じられる.自由に移動できる地続きの場所なのに,行動するうちにおのずと場所が区切られて,それぞれ違ったように意味づけられるのが不思議だ.また,姉妹が思い出の夕日の見える岬を探しているというのがポイントで,釧路周辺で見つからないとなると海に沈む夕日の見える場所は地図上で道北しか残らない.そんな推理が可能なところも面白かった.

母や祖母というのは博識だというイメージがある.父や祖父と比べて知識の量が多いのかどうかは判らないが,少なくとも知っていることを僕に話してくれるのは母や祖母のほうであるから,自然そう思う.博識というのは知っているかどうかというよりは語り手であるかどうかということなのかもしれない.斉藤冬も夏に対してそういうところがあったのではないだろうか.夏は学校であった出来事などを入院中の冬に話し,冬はベッドの上で読みふけった旅行雑誌から得た知識を自分がさも見てきたかのように夏に語ったのではないか.相馬轍は冬に対して失った母の面影を重ね,彼の幼い頃の思い出から素朴に想像される限りでは,冬の夏に対する慈しみが母のそれを思わせたのだろうけれど,それにしてもあの冬の饒舌ぶりには聞き手にとって無視できない何かを感じる.轍の母も死が刻一刻と近づく中でベッドの上から幼い轍に声をかけ続けた.だから轍は立て板に水で薀蓄を話す冬の中に母と同じ語り手としての女性を見たのではないだろうか.

重ねて言えば,夏がホテルのロビーで鏡に向かって話をしたように,冬は語ることによって存在している.「ってグランマが言ってたのか?」「そうよ」

ないはずのものが在るとき,例えば何かが化けて出るとき,あるいは知られざる内面が表に出たものとして感じられるようなものがそこにあるとき,それは言葉である.冬は夏の知らないはずの言葉を語っている.冬本人は夏の知らない場所は自分も知らないと申告するが,場所でなければ例えば,夏がルポルタージュの語源を知っているようには見えない.夏の知らないことは冬も知らないというのは一見筋が通っているが,実はわやくちゃである.何せ夏は冬のことを知らないのである.そしてそのことを冬は知っている.もしも夏が語れない言葉を語る者が冬であるとすると,それは生まれつき饒舌である.

しかし,冬は肝心のところで秘密を持っている.語れない言葉を語る者がまた独自の語れない言葉を持つとき,今度は冬の秘密が化けて出ることだって有り得るはずであり,そうすると事態はどうも,語れない者,語る者なんて区別が怪しくなってしまう.冬が単なる語り手でなく恋をもしてしまうのは彼女が秘密を持っていたからであり,だから彼女の「嘘」という言葉が切ない.

以前の記述はこちら.

風雨来記
風雨来記(2001/1/24)
 さっきもう一度阿寒湖へ行くまで誤って記憶していたが,摩周湖にマリモはいない.あと今回は道に迷わなかった.大進歩である.
旅人の心(2001/2/18)
 それは、君が旅人の心を持ってるからなのだ!

グランマ
sense off グランマ

風雨来記

風雨来記

オフィシャルページ
斉藤姉妹編のライターは小林且典氏.Webページには斉藤姉妹のノベルも掲載されています.どうやら私の大好きなあのにぎやかな兄妹たちの話を書いた人でもあるらしいです.きゅんきゅん.
WORKSを見ると,僕より水姫のほうがやってるゲーム多かったり.

Φなる・あぷろーち(3)

西守歌(名前の由来)編,読了.ここには,人と話をすることの幸いがあります.

全体についてしか語ることができないのはよほど細部がつまらない場合だけだと思っていたが,話へ没入してしまった場合にもそういうことがあるらしい.

神よ,細部に宿る神様.もうしばらくこのまま盲目でいさせて.

Φなる・あぷろーち(2)

西守歌編,途中まで.

明鐘編では,締め落とす,薬を盛る,までだったが,こちらでは脅迫までしてしまう.さすがに怒り心頭に達した涼は,唯一の対抗手段を取ることになる.内容はなんであれ会話を続けることは涼にとって分が悪いため,その手段とは当然,決して会話しないというものである.

ふと気付いたのであるが,西守歌は涼以外の人たちにはとても可愛がられていて,それは彼女が彼らの中で最も年下であるからではないだろうか.西守歌は早生まれの高校一年生で,同学年の明鐘よりも年下という気がする.そして明鐘以外の学校の人たちとは2つか3つ離れている.彼女が無理に高校二年生の授業を受け,クラスの人たち(大きい人たち)に丁寧語で話すのを見ていると,彼女の育ちもあるとはいえ友達というよりは後輩のような感じがする.そうすると,彼らが西守歌に注ぐ眼差しは後輩に注ぐそれであるように見えてくる.そこで,無視を決め込んだ涼に対して,彼らはいろんな方向からやめさせようとしてくる.明鐘は西守歌が可哀相だと涼に訴える.美紀はそんな風に明鐘が困っているのを見て,明鐘を可哀相な目に遭わしてやるなと文句を言う.笑穂は脅迫された涼の気持ちを理解しつつも,相手が幼いから大目に見てやれ,また,本人の事情を敵視することと本人を敵視することは分けてやれと笑穂ならではの理屈を説く.明鐘が手を回した百合佳さんからはお姉ちゃん力で説教される.春樹にはいつもみたいにドライに斬って捨てられる.無視を始めた当初,涼にとって西守歌と話すことはいいことが何もなく,無視する戦略をとったことは筋が通っていたのだが,話が涼と西守歌との間だけでなくその周囲に広がった結果,押しかけ問題を保留して会話を再開できる余地が作られている.これは誰か一人の言葉が決定的であったというよりは,いろんな人が自分なりに押しかけ問題を解釈してくれて一人で抱え込む必要がなくなった,そのゆとりであると思う.それは会話の深さというよりは幅によってもたらされる.

涼が押しかけに屈しない意地を変えないままに,恋愛の成り立つところが面白い.それはどこかで騙されていて,1つは坊主憎けりゃ袈裟まで憎いのたとえである.話の前後をみるに涼は「坊主=権力」「袈裟=西守歌」のつもりで言っていたようだが,ことの起こりの時点では「坊主=西守歌」「袈裟=権力」で,袈裟とは坊主が進んで着るものであり,袈裟が憎けりゃ坊主も憎いという構図だったはずである.するとこの逆転によっていつのまにか袈裟を着ている坊主の意思が問われなくなっている.ことわざを持ち出すことによって自分の気持ちの変化を支持し,なおかつ何気ない転倒のあるところが恋の面白さであると言える.そして最後に決定的なものとなったのは明鐘が作り出した会話的ゆとりである.権力による押しかけには意地を張るのに,権力による引き裂きには意地を張らないのかと彼女は訴える.意地を逆手にとってぶつけるこの言葉は有効打であって,涼の意地を一時的に保留して西守歌へ会いに行くことを可能とする.そして保留することによってようやく涼は押しかけに対する謝罪を得ることになる.

もちろん,西守歌の押しかけは涼と西守歌の会話の中でも保留されている.これは涼による無視が解けて以降,ほぼ最後まで続けられることになる.

西守歌「涼様ったら…….それが,かわいい許嫁に向かって言うことですの?」
涼「誰がかわいくて,誰が許嫁だって?」
西守歌「……やりますわね.両方同時に否定なさるなんて.」
明鐘「……?」
よく飲みこめない様子の明鐘に,俺は笑ってみせる.
涼「いいか? 『誰がかわいいって?』と言ったとする.」
西守歌「あ,許嫁だと認めてくださるんですね?」
涼「逆に,『誰が許嫁だって?』と突っこんだとする.」
西守歌「あ,かわいいと思ってくださってるんですね?」
涼「……と,まぁ,そういうわけだ.」

φなる・あぷろーち(西守歌編)より

これは涼による無視が解けた翌朝の二人の会話である.涼が西守歌に対して有効な反論が可能になるのは西守歌のやりくちを深く理解した後である.反論に成功したときほど二人は仲が良いように見えるのである.表向きの言い合いが実はじゃれ合いになっていることは二人の明鐘に対するくどいような説明に見て取ることが出来る.西守歌が押しかけによって涼を侵害したことは長い間保留されるのであるが,その間に二人は言い合いの形をしたじゃれ合いを繰り返すことによって,いつか侵害状態が解消され親密状態になるための準備をしているようにも感じられる.

人の家に押しかけるということは人を侵害すると同時に親密にする行為でもある.あるいは人同士が密接するのは極端を言えば喧嘩のときか愛するときかのどちらかである.狭い空間に複数の人が居るときには拒否すべき/受け入れるべき両極の相がみられるわけであるが,本話ではそのどちらでもあり得る空間が親密の相へシフトしてゆく様子が無理なく描かれており,そこにはこうして一つ一つ要素を拾い上げていったところでまだ取りこぼしがあるような,不思議な心地よさがある.

ただ僕の本心としては明鐘編(いつか笑顔で……)での選択が正しくて,以降はifの流れである.僕はあんな形の押しかけをしてくる人に対して少しでも恩情をかけられるほど心が広くないです.選択に関しては,自己主張の激しい主人公というよりは,それに対応する周りの人間のありかたのほうが影響を受けました.相談を持ちかけることが出来たり心配してくれる人がたくさん居るため,それが僕に転移して,僕自身が誠実であることが引き出されたように思いました.そうすると明鐘編以外の流れでは嘘が交じっていることになってしまうのだけど,春樹がそれを許してくれそうな,そういう余裕すら作品から感じられます.


φなる・あぷろーち (通常版)

φなる・あぷろーち (通常版)

水姫から初回版を借りていたけど通常版を買いました.通常版ですらどこにも売ってなくて探すのに苦労しました.

会話とゆとり

2, 3年前の話である.相互の意向を調整したいとき,メールではなかなかまとまらないが,会って話せばぱっと収束することが多いと真砂町の先生が仰っていた.ここで比較されたのは言葉以外の情報の多寡ではなく,特にその厳密さである.メールはやりとりに時間をかけることが出来るし内容を読み返すことも容易であるが,会話のやりとりはスピードが速いため一つの話がまとまる前に次の話が発展する.そこでは右足が地に着く前に左足を上げ始めるような,厳密さでなくリズムによって前に進められる部分がある.次へ引き継ぐ話とまとまりなく残してゆく話とは瞬間的に選別されて,本当に調子のいい会話は忍者のように水の上を走る.そんなこと自分でもどうやって実現しているのかは判らないが,僕らは会話というものの中で無数の枝葉を生み出し,また残し,保留された世界の中を一本の筋として高速で駆け抜けることに,どうやら慣れている.

長い間喋る機会を持ってしまうと嫌いな相手であれ喋ることそれ自体は厭わなくなる.これははるか昔の話であるが,大嫌いな人がいて,でも僕はその人とは普通に話をしていたので後輩に不思議がられた.曰く,大人なんですね,と.あるいは長い付き合いで情を持ってしまったのかもしれない.しかし,当時はよく判らなかったが,今だとそれは,会話というものが何か気持ちを保留する遊水地のような場所を沢山備えているためであると思う.

「Φなる・あぷろーち」は会話の興味深いゲームである.水原涼の家に見ず知らずの少女(益田西守歌(しずか))が意味不明な理由で押しかける.涼はもちろん西守歌を狂人扱いするし理屈によって追い出しにかかるのであるが,西守歌のほうはのらりくらりとかわしてゆく.15歳にして女傑と呼ばれる(人物紹介参照)ぐらいであるから相当肝が据わって見える.つまり,ここは彼女がいかにして水原家へ居座るかという話である.例えば,会話というものは話を切り出すのが難しくて,話すのだか話さないのだかあいまいなまま先へ延ばされることがある.折り目正しく話を始めるには事件当日であるとか食後やお風呂の後とかのきりのいいタイミングでないと上手く行かない.よって,そこを狙い撃ちすれば核心の会話はいつまでたっても始まらないのであり,西守歌はあの手この手でこのタイミングを壊す.会話を始めないことによって会話は長くなってゆくのである.そして会話さえ繋いでゆけば,頭がおかしいとしか思えない相手でも会話を厭わなくなる.あとの残りは彼女の容姿や炊事掃除の技や憎たらしいがあっけらかんとした性格が助けになって,最後の駄目押しに自分の事情をちょっとほのめかして(ずるいです),無事彼女は水原家へ居座ることが可能となる.読んでいる僕のほうでも最初はこの人のことを蛇蝎のように嫌っていて,その気持ちはまだ変わらないのであるが,ただそれを保留できるだけの会話空間がこの頃には不思議と出来ているのであった.敵ながらあっぱれな奴じゃ.

最初の犯罪的な印象にも関わらず,西守歌のことを涼が受け入れるに当たっては優しいつくりになっている.その後,信頼できる人たちがみな彼女に青信号を出してゆくからである.この涼とその周りの人たちとの会話も良い.話は基本的に長回しの会話によって進められ,彼ら彼女らの気持ちは一つ一つその中で語られてゆく.例えば,本人に直接言えないような気持ちは信頼できる幼馴染への相談という形でやはり表に出される.大勢の人と会話をすることによって,いろんな場所にまとまりのない話が残されて,解けるようで解けないような気持ちを抱えて歩いてゆく.彼ら彼女らと話をするってことは保留可能な場所を生み出してゆくということで.僕がこの話のことを大好きなのは,そこに会話的なゆとりがあるためである.


φなる・あぷろーち (初回限定版)

φなる・あぷろーち (初回限定版)

オフィシャルページ
原作脚本:三浦洋晃

水原明鐘(いつか笑顔で……)編のみ読了.
いまどき両親が共働きで子供が二人ぽつんと家に残されちゃうことはよくあるんじゃないかと思っている.僕らがそうであって,そうしたとき異性の兄弟ってどういう風に大切にすればいいのかよく判らない.年が離れていればそれなりの距離を置けるかもしれないが,年が近くて家も狭いもんだからいつも二人だけでいて友達みたいになってしまった兄弟に対しては,他の友達に接する場合となにを変えればいいのか難しい.一つ思うことは,それが家族の特別な形であると考えると兄弟なのに仲良すぎやしないかと云々してしまうのであるが,友達の特別な形であると考えると少しすっきりする.血の繋がった友達がいたっていいじゃないか.

東京に下宿していた時の大家のおばちゃんから,毎年お兄さんと一緒に伊豆高原へ旅行へ出かけるんだという話を何度も聞いた.二人とももう連れ合いを亡くしているので,残った兄妹だけで仲良くしているのだという.しかしそれもお兄さんのほうが足を悪くしていてもう最後になるかもしれない,と少し寂しそうにしておられた.あるいはデパートの催し物会場で販売員のおばちゃんと話をしているうちに,いつしか僕はおばちゃんに服を選んでもらう流れに巻き込まれていた.いわく,昔,兄と二人暮ししていたときにこうしていつも見立ててあげてたのよということだそうで,僕は兄の替わりにされてしまったのである.幾つになっても兄妹は兄妹で.僕の理想をいえばそういう関係で,明鐘についてもこれ以外に考えられず,二人の別の結末について今は探す気がしない.

三浦氏といえば,「夢のつばさ」勇希編も.

Φなる・あぷろーち(PrincessSoft)

僕がゲーム内の存在として参照し,操作する主人公の口数が少ない場合には,自然,僕がフィクションの人たちの話を聞きにゆく気持ちになる.そこに気になる人がいて,その人と面会してインタビューを繰り返すような気持ちである.そうやって世話を焼かなければ彼らは話すことが出来ないのであるし,こちらとしても世話を焼く相手がいることに幸せを感じる.

本作では主人公に話したいことがあって,またそれを聞いてくれる人たちが居るため,僕がフィクションの人たちに話を聞いてもらうような気持ちになる.話したいことがあって,聞いてくれる人がいる.悩み事があって,それをガチンコで考えてくれる人,生活の観点で考えてくれる人,いろんなレベルで付き合ってくれる人がいるということ.第一に,話したいことが自分の中にあると思えることが幸運であるし,そのときそれを聞いてくれる人がいるならなおさら僥倖である.そうしためったにない出来事に僕を巻き込んでくれた彼らに感謝したい.

龍神四方山話(4)

さて,最後に本題の四方山むつきの話である.

彼女は「不思議っ子クラブ」という高校生でそれはないだろうという名前のクラブの部長である.部員はもちろん親友であるさくらのみ.そして龍神湖に居ると噂されるリュッシーを追い求める,とか,UMAを探すためにいつも自作の変なメカ持ち歩いてたりする,とかなんとか.いや,こういうちょっとズレている背景が彼女の人生とか色恋沙汰において決定的な意味を持たず,そこで身に着けたアウトドア能力が村の人たちに重宝がられたり,リュッシーとかメカのこととは全く無関係に彼女が翔平のことを気に入っている様子を眺めていると幸せです.

趣味が一致していなくとも人と仲良くすることは出来るのである.

龍神四方山話(3)

芽依子のもう一つの話を読んだ.これもまた長い.芽依子と距離を置くとこの流れになるので,翔平がこの村で新たに芽依子と出会うというよりは,翔平が第三者として龍神伝説の続きの世界へ迷い込むような形になる.つまり,言葉臭くない.

再三,芽依子の料理のことは述べられてきたわけで,どんな身体になっても料理を続けてくれたわけで,そのために未来,芽依子の成長は料理の上達具合によって測られ,また偲ばれる.

生まれ変わりという言葉は本当にそうであるかというのは抜きにして,素朴に縁の深さを言うときにも使われる.僕は幼い頃に伯父を亡くして,後に僕の食べ物の好き嫌いが同じだったがために,僕は伯父の生まれ変わりであるように呼ばれ,そんな風に故人を偲ばせてしまったことがある.同じ時代に生きていたので生まれ変わりもなにもありえないのだが,人はそんな風に偲ぶものであるし,故人とそういう繋がりを持てることは僕にとっても有り難い.それまでは仏壇を前に話すべき内容などなかったからである.

今はもうここにいない人のことをご飯で偲ぶというのは僕にそういうことを思い出させる.共に暮らした時間とは,結局,食事の時間が一番長い.

あと,彼方さんたちがさくらに対して桜花のことを話していたことが判ったので安心した.隠す理由などない.そしていつか翔平も同じようにするだろう.あの家族とその周りにいる人々が目の前の人を愛するにあたって,過去が目を曇らすということはないように思われる.

ゆきてゆきし物語

後輩と議論をしているうちに午前0時,それからLaQuaへ向かった.そこは深夜にして極楽であった.湯がこんこんと湧き出ている.あの豊かな水量は弘法さんではなく行基さまの湯であろう,というのは相変わらずの奈良贔屓で,ついでに言うと近鉄奈良駅前の行基像の噴水が待ち合わせスポットである,というのは奈良の豆知識.

LaQuaは宿としてみれば一泊5000円なので安いしそれに温泉付きであるから150あるシートは満席であった.起きている人たちを見ると友達づれが多い.くつろぐことが出来るし,ちょっとしたお祝い気分に良い.というようなことを後で皆に報告したら案の定ジェットコースターのことを聞かれた.「ところで乗ったんですか」「あんなの乗ったら死んじゃう」.

LaQuaを出て春日の交番前で電動自転車(ヤマハのPAS)をレンタルしているのを見つけたから借りてみた.山の手の坂道を5kgの荷物かついで歩き回るのは億劫だったのである.結果,自転車にあるまじき馬力であの坂道が苦にならない.しかし,わーい,と乗り回しているうちにバッテリが半減したので,これは坂道をぶいぶい乗り回すものではなくちょっとした買い物のときに坂道があってそのとき楽をするためのものなのであろう.それにしても楽しかった.

以下の写真はその収穫.
旧町名案内・真砂町
「婦系図」の真砂町の先生のことがちゃんと書いてある.素晴らしい.

車やバイクに乗る人に何がいいのか聞いたら,みな行動範囲の広がるのがいいと言う.歩いていても自転車に乗ってもよく電柱にぶつかるうわの空な僕であるから(ちなみにLaQua内でも柱に頭をぶつけた)車やバイクは危険で乗る気がしないのだが,電動自転車くらいなら良いかと思える.スクーターは置く場所がない.調べてみるといまやかなりの種類があって,WiLLブランドの折りたたみ自転車などは非常にそそる.いざとなれば電車で帰ればいいのである.

僕が電動自転車に乗ったときの気持ちはおそらく「かえで通り」のあかりがスクーターに乗った時のものと同じだっただろう.彼女はスクーターに乗り始めてから少し遠出をするようになった.遠出をして知らない道を行くのが楽しい.だけどそのうち心細くなって帰ってきて,いつもの風景が近づいてくるとほっと安心する.とかそういう感じ.知らないところへ行けるような気がした.

帰り道には出来るだけ違う道を通りたくなる.遠出をするときでも近くから帰るときでもこれは同じである.行きの道と帰りの道が異なるとき,帰る気持ちよりは新しいどこかへ行く気持ちでいて,本当に帰ってきた感じがするのはようやく家が見えてきたあたりからである.金沢の泉鏡花記念館へ行ったときに龍潭譚のジオラマがあり,これが見る者にとって手前が物語の始まった場所であり,最も奥がその終着であるように作られていたのが印象深かった.龍潭譚とは少年が優しき姉上の元を離れ,躑躅の丘で斑猫に導かれて異世界へ迷い込み,うつくしき人と出会い,渡し舟に乗って再び姉上の待つ場所へ帰る話である.そうすると一見,少年が行って帰った話であるのだがそれはどうも後からつけたような考えであって,行く道は躑躅の丘,帰る道は渡し舟であるという落差からは,少年が終始どこかへ行く話であったとも感じられるのである.ジオラマではやはり手前に躑躅の丘,奥に渡し舟が配置されており,このジオラマの世界を行く少年は姉上の元から姉上の元まで一直線に旅をしたことになる.

帰り道が来た道を辿り直すものでない場合,そもそもそれは帰り道であるのかどうか怪しい.それは,ただ語られたり体験された順序のままに理解するほうが自然である.帰り道を帰り道らしく語ろうとすると,その道はしばしば省略される.あまりに重複が多いためである.

『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』の場合は,姫宮アンシーが彼女の元へやって来た天上ウテナと一緒に別のどこかへ行く話である.そこへ来た道すら示されない以上,あのカーチェイスは外の世界へ帰るものではなく,外の世界と呼ばれるどこかへ行くものとして感じられる.彼女らも確か,帰る,とは一言もいわなかったはずである.帰る,というとどうにもその場所が当たり前のものとして先に在ることになる.つまり,閉じた場所の外にある世界が行くべき場所であっても帰るべき場所でない辺りが好みである.

とかいう話は今木さんのとこの話がきっかけ.


鏡花短篇集 (岩波文庫)

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僕はこれで読んだ.

劇場版 (機動戦艦ナデシコ / 少女革命ウテナ / アキハバラ電脳組) [DVD]

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当たり前のやりとり

ただ,時々出てくる橘家,出雲家,雪月家の人々の言葉には相変わらずの印象がある.

誠史郎「やあ,翔平くん.靴が一足多いと思ったら君だったんだね」

(雪月商店の戸を引きながら)
みかん「んしょ…おばあちゃ〜〜ん」
小夜里「あれれー?このかわいい声はどなたかしら〜」

彼らは人の訪れた気配を大切にする.人よりも先に靴や声が現れて,それに対して彼らはもうおもてなしの準備を始めている.そのことがただの一言ですっと伝わってくる.

あるやり方が当たり前であることに気付くのは,ある人にとって当たり前の考え方が,別の人にとって当たり前の考え方によって突き崩されるときである.芳乃さくらだって不自然に悩んでいたわけではない.(というか不自然に悩むって可能なのだろうか?) ただ,彼女がそれによって追い詰められていたとき,純一の当たり前な考え方によってそれが解消されたから,ああ「まんぼう」の話ってなんて当たり前なのだろうということが気付かれるのである.SNOWの龍神伝説では彼方さんにとっての当たり前な行動が,過去の人々の行動に対して新しい道を切り開く.しかし,Legend編を読んでいるときには,過去の人々が別段,当たり前の行動を取らなかったとは思えなかった.そうした当たり前であることへの強い気付きが,純一や彼方さんたちの暮らしが寄って立つところの当たり前に続いてゆく時間,例えば幼い日の約束,祖母から孫へ,親から子へと続くその日々へ還るように思えるから,だから彼らの普段着の一言が改めて愛しくなる.当たり前であることが当たり前であるにも関わらず驚きを織り成す.

龍神伝説が自明さとともに展開する一方で,おくくりさまの伝説は分析を引き寄せる.憑き物というのはどうも,平明な言葉が道を切り開くというよりは,与えられた迷路を解くような気持ちにさせられる.前者において何かこぼれ落ちた部分を探す必要があるとすればそれは後者になるというわけで,友恋はSNOWにとって極めて素朴な続編であると思う.


(ソフトウェアのリンク先は18歳未満お断り)

友達以上 恋人未満

友達以上 恋人未満

おそらく芽依子の一番長い話のみ読了.
シナリオライターは前作同様,望月JETと書かれていた雑誌があったが,実際は次の通り.

博恵夏樹(「11日〜13日のシナリオ,一部を除いたトゥルールートのシナリオ」担当との記述がお仕事のページにある)
高橋直樹
玉沢円
JUN

望月氏はシナリオ補佐として関わっている.

D.C. ~ダ・カーポ~ DVD版

D.C. ~ダ・カーポ~ DVD版

ひとりごと,ふたりごと

特別な能力といえば,友恋の荒井翔平は動物や妖精と話をすることが出来る.僕から見ると翔平と動物との会話は片方が何を言ってるのかを伏せた会話である.例えばすずめはちゅんちゅんとしか言わない.翔平はあまり彼らが何を言ってるのかを説明してくれない.しかし説明がなくともこの独り言のようなやりとりはその場の話の流れからだいたい内容を想像することが出来る.そういえば,友人の携帯に掛かってくる電話は友人のほうの言葉だけを聞いていても内容が想像できるものである.飲食店や電車において赤の他人が携帯で話しているのは意味不明で鬱陶しく思うが,あれは相手の文脈に関わりを持つ気がないためであろう.

芽依子と芽依子に憑いた妖精おくくりさまと翔平の三人の会話はズレていて良い.くくりは人の恋の悩みに対してとり憑くが,芽依子はくくりの声を聞くことが出来ないため,そこで翔平の出番となる.自分のことは自分がいちばん判らない,距離をおいて見ている人ほどよく判るもので,恋愛相談なんてその最たるもので・・・なんていう話かと思えば,翔平を介してもやっぱりくくりが何を言ってるのかはよく判らないのだ.ここがおくくりさまのいいところである.

はじめのうちは持て余していたくくりに対して,芽依子はある日,名前を付ける.

「私に憑いているくくりに,名前をつけたんだ」
「へえ,どんなの?」
「『くー』って言うんだ.どう思う?」
「鳴き声を名前にしたのか.いいんじゃないか」

「友達以上 恋人未満」(スタジオメビウス)より

自分の事故とか病気の思い出ってよく覚えてるもので,ある傷に永く煩わされているとそれがその人の持ち物になることがあって,芽依子にとってはるか過去からこれまでのいろんなことをひっくるめたそれは,最後の最後に「私のくー」になる.そしてくーが人の言葉を獲得するというのはやはり別れの瞬間でしかありえなくて,言語化されたものってもう自分から離れるしかないじゃない.

言葉について理屈をこねる点の見つからないスマートさが前作SNOWの美点だったと思うのだが,本作では恋とか妖精とかがえらく言葉臭い.それが芽依子には合っているといえばそうであるが,若干の寂しさは残る.