人工衛星ヒッパルコス

ギャングスタ・リパブリカ

ギャングスタ・リパブリカ

叶の悪がガラクタであるとすれば、ヒッパルコスの天使もまたガラクタということになります。

ヒッパルコスの天使は超越的な存在であると叶が言っている通りに、《あの人と会ったのと同じ日》に顕れたというこの天使は、叶が悪と出会ったことで変性した意識に伴う存在だったと思われます。そういう大きなものとの接続を感じて人生振り回されてるように見えた叶をこの世に繋ぎ止めるためのこおりの言葉は、《誰も》という大きなものでなくてはならなかったのでしょう。

誰も、かれも、もちろんヒッパルコスの天使も、溺れないように。

全称がより大きな言葉の輪で天使を上書きする。

天蓋の四分儀

ギャングスタ・リパブリカ

ギャングスタ・リパブリカ

好きなフレーバーについても触れておきたいと思います。

まずは星のこと。冒頭で柳瀬さんが《そのキーホルダーの持ち主同士は、運命的に惹かれあう》と言っていたロマンチックな空気がまだ残っている序盤に、叶は星を眺めていました。

えーと……、たしかあれがしぶんぎ座で、あれがケルベルス座。

いずれも、かつては在ったけれど今は残ってない星座です。国際天文学連合は88の星座を定めましたが、同じような夜空を見ていろんな人がいろんな国で異なる星図を描くことができます。

過去にそうであったし、きっと、未来にも。

星は遠く離れているだけでなく遠い時間も感じさせるものだと思います。いま私たちが見ているのは過去の光だということ。数千年で移り変わる北極星、過去と未来の夜空には今とはかけはなれた星の配置があることを思うからでしょうか。あるいは距離であるのに光の速さで何年という錯誤めいた単位のせいかもしれません。

叶が懐古的なロマンチックのために喪われた星座を思い描いているのか、あるいは彼らの夜空には今もあたりまえのようにしぶんぎ座やケルベルス座があるものとされているのか判りませんが、いずれにせよ、私が彼らの生きている世界をまるでずっと昔のことであるように思えているのは、過去の星座や古代の天文学者が参照されている手筋のためです。

彼らのことは例えば人間であるとか、私と同じような存在であるとしか思えませんが、その一方で彼らはループという私には実感の持てないものを当たり前としています。私が何百年か前、あるいは何十年でもそうかもしれませんが、昔の時代へタイムスリップしたら、そこで会う人々と話をして一緒に暮らす分にはまぁまぁ困らないものの、何を当たり前とするかでは実感の持てないところが出てくるだろう、私と彼らの関係を四分儀で測るならば、それくらいに離れているのではないかなと思ったのでした。

そのことで、とくに不便を感じたことはない。

ループなんてちょっとした生理現象であり、生活に便利に使えたりするようなものじゃない。

ループできないことの弊害は、『みんなと違う』ということに表れる。

(ギャングスタ・リパブリカ、水柿こおり篇)

こうした叶の所感を私なりになぞるようなところがあります。叶はループできる人々との違いを、私は、叶やそのほかのみんなのようなループがあることを当たり前と考える人々との違いを、不便ではないものの、感じとっている。

私は彼らとは同じで違う。たぶん、イェドニアの人とそうでない人みたいに、禊とそうでな人みたいに、誰かと誰かでない人みたいに。そして、誰もがそう感じとっているならば、と水柿こおりは全称で呑み込もうというのです。

こおり「誰も溺れないように--」

誰も、か。

フレーバーを拾うだけのつもりが大きなところに接続されました。これは、警戒すべきことです。

バロックの奏法

ギャングスタ・リパブリカ

ギャングスタ・リパブリカ

ギャングスタ・リパブリカ。どこで終止符を打つか迷いますが、とりあえず終わりということにしておきます。

まぁ、終止符を打ったとしてそこで終わりにしなくていい。またいつかはじめに戻っていい。終止符は反復を始めるための指標だから。

だから、ゆとりさんの奏でるバイオリンを何度でも聴いていたいと思います。

梨都子「バイオリンをはじめたころから症状は出ていたはずです」

(第2部、古雅ゆとり)

あのときバイオリンの話でふと思い出したかのように梨都子さんが言いました。バイオリンと病気とに因果関係はないのでしょうが、私は演奏されるループのことを思いました。小学生のころエレクトーンを弾いていて、反復記号で何度もループした思い出があるのです。この反復記号は、楽譜の最後まで辿り着いたときダ・カーポが置かれていれば楽譜の先頭に戻る決まりです。奏者はまたはじめから同じ楽節をプレイして、おさまりの良いところに置かれたフィーネで演奏を終えます。しかしこのときフィーネを無視して進むと決めてしまえば、ふたたび楽譜の最後のダ・カーポから先頭へ戻って、この曲は何周でも永遠に続いてゆくのでした。元より楽譜にフィーネの置かれない無限ループの曲もあるそうですが、そのときの私は、置かれたフィーネを無視して進んでも良いのではないかということ、そして、いつでも好きなときに終わっても良いのではないかという思いつきを面白がっていました。

いつまでたっても終わらない騒音。こどもに鳴り物を持たせてはならぬ、というやつです。

あの頃、気の済むまで何周も弾いていた。だけど気の済む感じってどういうことだったのか、いったいどういう気持ちのときに周回を止め、演奏を終えたのか。一曲の完成に辿り着いたのか、あるいは不意に飽きたのか。小学生の頃の気持ちはもう遠くなって、以上はいろいろ書いてみたけど全部想像で、だけどあのときループで演奏していたという記憶だけが確かにそうだったと思えています。

反復記号に沿ってループしていた頃の気持ちについてはたかだか30年を遡るにも四苦八苦ですが、せっかくなので300年ほど遡ってみると、バロックと呼ばれる時代には現代と異なる記号が使われていて、どの範囲をどんな風に繰り返すのかという習慣も異なっていたといいます。繰り返すときに同じ楽節を2回弾くべきなのか3回弾くべきなのかが曲の性格によって変わることもありました。19世紀以降は繰り返しの意義が薄れてしまったため、18世紀までわかりきったことであったループの習慣は、いまの私たちにとって当たり前にわかるものではなくなってしまいました。だから、現代の演奏家が過去の楽譜から当時の演奏を再現するには、同時代の音楽理論家の残した文献を参照しながら、実際どのように演奏されていたのかということに近づいてゆく必要があるそうです。(橋本英二「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」より。)

バロックの習慣に思いを馳せつつ、水柿こおりがキーホルダーを探すときに回ったループについて、ループのない叶が《想像で共有ループの中の記憶を再構成した》と考えていた時のことを思います。もはや叶にとっては当たり前でなくなってしまった、習慣ではなくなったことについて、それを失う前の遠い過去や今を生きる彼女の話を聞いて叶は再構成していたのでしょうか。

彼女らにとってはループが当たり前であるためか、どういう気持ちで周回しているのかについて、体験している本人から証言が得られる機会は限られているようです。私がその、他を忘れているのかもしれませんが、唯一の証言だと思えるのが、古雅ゆとりさんが湖畔で語ってくれたことでした。

そして、

ゆとり「続けられない理由があるの、梨都子?」

私は彼ら彼女らのループについて、ずっと昔に失われたものを想像するようにしか触れることができません。古雅ゆとりさんの証言によると、あのとき、ごく当たり前のようにフィーネのその先は、あったのだと思われます。

運命の選択、というやつ。

ギャングスタ・リパブリカ

ギャングスタ・リパブリカ

店の人「人と人の出逢いが運命であるように、人とモノとの出逢いもまた運命だ」

店の人「君は、俺のいくつもの作品のなかからそれを選んだ」

店の人「そのキーホルダーの持ち主同士は、運命的に惹かれあう」

(ギャングスタ・リパブリカ、アバンタイトル)

私は毎日なにかを選びながら暮らしているのだろうが、そこにあるのはおよそ選択肢ではない。選択がカードや箇条のような選択肢として表現されるときにこそ、普段は考えることもない運命のことを思うのではないか。だから、運命とは自動的ではなく、操作的なものではなかろうか。(2015/8/10)

それがアバンタイトルまで読んだときに考えたことでした。ロマンチックな出来事を成立させるために、運命であるのにそこに選択が関与するという矛盾が導入されているのではないか。しばらくはこの初対面の印象のまま読むものとします。

ふつうのループは自然発生なのに対し、共有ループには意識的に入ることができる。

(第1部)

どちらかといえば、ループから抜けるときよりむしろ、ループへ入るときにある意図的な選択のほうが注目されているように見えます。

叶「リードシクティス・プロブレマティカス」

こおり「オオカミ」

ゆとり「うさぎ」

シャールカ「猫」

春日「ヒツジ」

希望「イルカ」

禊「ライオン」

それぞれが持つキーホルダーのモチーフを合言葉として、俺たちは8ヶ月という長さの共有ループに入った。

(第2部、凛堂禊)

矛盾、運命的に選択することの悩ましさは、暗号のような単純な言葉で包んで外へ書き出すことによって、一時的に棚上げすることができるのでしょうか。

店の人「有史以来、人は記号化(あんごうか)し単純化することによって、複雑な世界を理解する助けとしてきた」

(アバンタイトル)