生徒会の一言

なにか話す,だべるってことの,はじめるときは,ゼロから1へのジャンプでさ.人と人がそこにいるとき,どうやって,なにを,話しはじめるんだろうね,まったく.

適当になにかを言やぁうまくやりとりが回りはじめるというものでなし,なんだろ,その話しはじめることに対する自信が,敏感に伝わるじゃない.空気みたいに言葉をいえる人に惹かれる.僕が思う部長の資質はそれ.僕もかつては部長だったんだけどな.ぼんやりで,目から鼻へまるで抜けてかないことも自信の源になりえてさ,あのころはそういうのが良かったのだと思うよ.まじいつも鼻すすってたし.来るものは拒まないというよりも,拒むほどなにか考えてない.ただそのままに,毎週,三畳もないような歴史部室に集ってだべっていたのだ.

大学のサークルでの僕が会長を代行することになったときの自信は技術的なところに根ざしてた.いまではちょっとそういうとこもないので,話しはじめることに自信がない.それでも仕方がないのでいつもなにかを言ってる.

さっきびっくりしたのはゆゆ式を読み返していて,ゆかりが部長で,ゆかりが毎回のテーマを気まぐれで出してるってのに今さら気づいて.これ,まとめの板書がゆずこなもんだからさ,ネタ出しもゆずこだと思っていたのだわ.ゆずこは書記か.そもそもこの部に部長という役職があったのか.僕のなかでゆかりとゆずこはほどよく交ざってたのだけど,ゆずこだけが締められるあたり(p.81右上)違うんだよな.部長というのは僕にとってゆかりがぼんやりであることを確かなものにします.空気みたいになにかを喋ってくれる,ちいさな神様みたいなひとだ.

桜野くりむという生徒会長,というかつまり部長であるが,ぼんやり気味な彼女が自信ありげに何か議題を言うことによっていつもはじまってる部活のおはなし.それに尽きる.実のところ筋道と理屈の人である杉崎鍵にとってみりゃあ,そりゃ神様みたいなひとだと思うよ.くりむ本人が自分をどう思ってるかは知らない.僕が神様っていうときは,例の古典に言う「神様みたいないい子でした」というやりきれなさもあるのだけどね.

杉崎鍵はひととおり言語化する人だけど小説も妙にうまくて,くりむの魅力は明らかな言葉で説明されるのに加えて彼の小説の構成にも現れている.章のはじめに必ずくりむの一言を置くというところが杉崎鍵の心のありかだ.そうでなくてはなにもかもがはじまらないのだから.自分のこと,自分の過去に言及するという,そんな自分たちの部活動のことをさらに文章にしようっていう語りたがりな僕らの情熱だけじゃなくて,そういう杉崎鍵の小説の才能が好ましい.口でも言ってるがどんなけあんたはくりむのこと好きなんだ.

生徒会の女の子たちによると杉崎鍵こそが部活の大黒柱ということだけど,僕はどちらかといえば杉崎鍵による見方のほうを採りたい.