2006年にプレイしたゲームより

【トリガーハート エグゼリカ】 最近 Xbox360 でギャラガをやってたら小学3年か4年の頃のことが思い出された.たしか友達の家のファミコンだったけど,それがギャラガの映ったテレビと僕と暗い部屋しか覚えてなくて,どの友達の家だったかは思い出せないでいる.画面しか見てなかったのだろう.敵の編隊が意味ありげな軌跡を描くのが面白かった.怖くもあった.あと,敵を撃って倒す以外にもやりとりのあるのが妙だった.ギャラガでは敵にわざと自機を捕らえさせ,新しい自機を使ってそれを奪い返すことによって二つの自機をドッキングさせることが出来る.自分が敵にさらわれてゆく様子を自分が見てるのも面白いし,それを自分で取り返して,自分が二人になるというのも面白い.いや,三人なのかな?
 残機数というのはダーツの残り本数みたいなゲームに挑戦できるチャンスの数のことなんだけど,ダーツが宇宙船や探検家になるとライフの数のように見えてくるのが不思議である.だけど,あんたにはいくつ命があるんだとか真面目に捉えることはなくて,そこに偏執するとTRPG「パラノイア」のPCのように Zap! Zap! Zap! と撃たれるたび自分のクローンが現れることになるだろう.これがゼビウスなら Zapper! Zapper! Zapper! になる.
 ともあれギャラガではドッキングしたら火力が二倍になるのはいいけど当たり判定も二倍になるので,強くなったのか弱くなったのか僕にはよく判らなかった*1.画面上で自機がいったりきたり増えたりするのも含めて,この不思議な感じが好きだった.
 捕まえる,という考えはちょっと生き物らしいので興味を引かれるのだと思う.自分が捕まってしまうゲームというのは他に知らないんだけど,敵を捕まえて利用するゲームというのはシューティングだけとってみても少なくはない.ギャラガの続編ギャプラスでは自機が敵機を捕まえる.ダライアス外伝やGダライアスもそうである.ちょっと探してみると,僕はプレイしたことがないけどゼロウィングやスーファミ版のマクロス*2というのも出てきた.シューティングゲームのキャラクターの絵というのは当たり判定のある範囲のことだったけれど,捕まえることができるようになるとその絵は手でつかむことも出来る対象だったのだなぁという気がしてくる.昆虫みたいなものである.エグゼリカが敵を捕まえて投げる仕草がすっとするのは捕まえるっていうのがそういう感触のものだからで,キャラクターは戦闘機型じゃなく人型でね,敵をハンマーのように回して投げるのがらしくて気持ちいい.
 つかむことができるものはもちろん当たると痛いものだと思っていたが,実はエグゼリカは敵とぶつかっても倒れない*3ということを途中で知って驚いた.驚いた自分を面白いと思ったから一層プレイし続けた.驚くほどのことではないが,驚いてしまったのだから仕方ない.たいしたことのないずれである.自機の外観と比べて当たり判定の小さなゲームが普通になっていて,そういえばエグゼリカもその一つだった.判定は小さな円や四角に抽象化されて,だけどそこにキャラクターは立っているというこの種のずれも普通すぐに受け入れられるものである.
 エグゼリカに関してはどういうわけかうる星やつらのしのぶのようだと思ってしまい,その妙な連想が気に入っている.ビジュアル的にはクル姉のほうが好きであるが,思ってしまったものはやはり仕方がない.今ではエグゼリカでなければ投げるタイミングの判らない身体になってしまっている.
 気に入るというのはだいたい変になるということである.例えばブルードラゴンはクリアしてしまう程には面白かったが,変にはなっていない.RPGで言うなら遥時3を語るときの僕のほうが明らかに変である.

【東方永夜抄】 いわゆる弾幕の場面では,自機と敵機を見るというよりは,弾幕の隙間を見ることや,上手い人ならば弾を誘導して避けることの可能な弾幕を描かせるということが行われる.自機が小さな点として感じられてゆく果てに,弾の軌跡や隙間や全体の描く絵が印象に残ってゆく.絵を描いたのは誰だったかを後で語ろうとすると,ふたたびそこに自機と敵機があったように思われてくる.ここでは弾幕がキャラクターを代理する.弾幕とキャラクターと言えばZUN氏がダラ外におけるボス中心のゲーム構成について述べていて,これが面白かった*4.ダラ外なので長いボス戦はとくに弾幕に限らず数段階の攻撃パターンの変化で構成されいていて,ゲームをしている間はそのパターンと取っ組み合いであるわけだけど,ゲームの場を離れて人に話そうとするとキンメダイと言うキャラクター名から始めるしかない.言葉にすると実際にやってたことはいろいろ吹き飛んでしまうのだけど,愛着の持ちどころとしてこれはいい.東方で弾幕パターンをスペルカードと呼んでそれぞれに名前をつけたのは,技名をアピールしながら戦うというケレンでありながら弾幕を語るためのものでもある.
 スペルはマスタースパークがよい.なんてったって恋色だ.ミルキーウェイもよい.なんてったって星形だ.そういうわけだからつまり魔理沙が好きだ.
 ソースは忘れたのだけどZUN氏がスペルカード(弾幕)はボスの使うボムだ,と書いていた.自機とボスというのは火力や耐久力の次元が違うが,その対称的でない見かけに対して自機もボスも同じ理屈で動いているというのには虚を突かれた.そうすると,自機のボムに名前が付いていることは珍しくなかったから,ボスの弾幕に名前があっても不自然じゃない.東方各作品を通じて自機となるキャラとボスとなるキャラには入れ替わりがあるし,東方花映塚はティンクルスタースプライツみたいな対戦シューティングで,まんま対等なキャラクターとして戦うことになる.キャラクターは理屈上人間並み妖怪並みに粒が揃っていて,火力や耐久力の位置づけとしては作品ごとに自機であったりボスであったり,あるいは対等だったりしている.これらは別段気にすることもない使い分けであるが,弾幕がボスの使うボムだという発想は一度虚を突かれているが故に思い入れ深いものとなっている.

【東方文化帖】弾幕撮影(Shooting)ゲーム,とジャケには書いてある.弾幕を撮影して,その写真に評価点が付けられる.またキャラクターによるコメントも加えられる.機械に美のようなものを判断させて,点数や文章を付けさせようという発想が好みだ.弾幕を避けながら撮るという戦場カメラマンさながらの緊張感もいい.今年の一押し.

【旋光の輪舞 Rev.X】このためにXbox360を買った.下手の横好きはシューティングだけでなく格ゲーもそうなので,とても対戦台で遊ぶ気にはなれず,おうちでね.ジャンルはいちおう対戦シューティングだけど必要なセンスは格ゲーのそれ.ただしサイキックフォースに近いので僕にとっての取っつきやすさはある.
 旋光の輪舞では自機をシューティングのボスのように強化することが可能である.見た目はステイメンとデンドロビウムの関係に近い.ボスとは自機に巨大なパーツを追加したものである,というのはメカものシューティングにおける自機とボスの関係に対する素朴な回答である.同様の自機-ボス観を持つ先行作品としてチェンジエアブレードという対戦可能なシューティングがあるらしいので,いつかプレイしてみたいものである.
 あと,ストーリーモードで対戦中に戦闘と平行してキャラクターがずっと会話を進めているのが面白い.スポーツゲームの実況もそうだけど,イベントシーンではなく実時間ゲームの背景としてずっとしゃべり続けるのは好みだ.CALL OF DUTY2も戦場ではずっと通信が入ったり周りの声が聞こえたりだった.人同士ならば対戦中はもちろん相手の声が聞こえるものである.ざわざわしてるのはいい.ギャルゲーだって隣の人と話しながらするのがいい.Xbox Live のボイスチャット機能を使えば,遠隔地のプレイヤーと声で繋がりながら対戦することが出来る.旋光の輪舞もボイスチャットに対応しているが,対戦相手がいない.というか一度接待で勝たしてもらったぽい以外は勝てないので,声まで繋ごうというのは気が引けて.一人で練習している.
 下手であるが,それでも気の置けない相手となら人と対戦するのはいい.師匠の初音ちゃんに全く勝てなかったのは愛の差なのであろうか,とか馬鹿なこと喋りながら.

【風雨来記】【北へ。〜Diamond Dust Drops〜】 ゲームでなくてもいいので,自分の旅の記録を YouTube で公開してくれるだけで嬉しい.各地でおばちゃんに突撃しまくり,ってそれは僕がやればいいのか.だけど他人様の映像を個人がどこまで公開できるようになるのかまだよく判らない.
 ゲームと YouTube との関係といえば,エグゼリカの攻略映像がアップされていたのにびっくりした*5.PCの同人シューティングではプレイの記録や公開は簡単だけど,アーケードゲームでは難しくて,人のプレイを見るにはゲーセンへいって背中越しに見なくてはならなかった.週に一度くらいしかエグゼリカを置いてるゲーセンへ行く時間は取れなかったので,YouTube にあるのは有り難かったし時代が変わったもんだと思った.Xbox Live にも他人のプレイを観戦するだけのモードがあったりする.こういうことはじゃんじゃん出来るようになるべきだ.

Wii は2次元シューティングかギャルゲーが出たら買います,の2007年へつづく.

*1:数年前やりなおしたテラクレスタにも同じ感想を抱いた.

*2:超時空要塞マクロス スクランブルバルキリー

*3:ペナルティはある.あと,弾に当たれば倒れる.

*4:以下,「東方文化帖」(一迅社)インタビューより引用: 『ダライアス外伝』は,ステージの三分の二くらいの長さがボス戦という,ボスの性格付けをして,盛り上げるためだけに道中があるようなゲーム構成が特徴的なんです.それまでのゲームだと「3面が面白い,4面が……」という会話になるところが,『ダライアス外伝』では,オクトパスだ,グレートシングだ,とボスの名前でゲームが語られる.つまりゲーム的な記号で交わされていた会話が,キャラクターの名前で交わされるようになったんです.(中略)「スペルカード」というシステムは,シューティングでいうところの第二段階,第三段階といったゲーム的な記号も廃した結果生まれたものなんです.

*5:スコアラーが集まるようなゲーセンでは,プレイ映像をビデオ録画できるシステムが置かれている,と念のために補足.

2006年に読んだ漫画より

  • 高河ゆん「LOVELESS」

 ことしも世界一素敵な漫画でした.おそらくはゆん版ねらわれた学園.人間がだいぶ違うんだけど,学園漫画であることについて他を参照する形で触れておきたかった.
 7巻も語り始めるときりがないので一つだけ.学年や長幼の差からくる面倒見の良さとか,先輩の人が自分の先をゆく格好いい人として見えることであるとか,世の中そうであるということに対する信頼が感じられてね,好き.特にブレスレスのおふたりについて.
 画面にしても何につけてもすごいので,他はしばらく言葉にしたくない.

  • こうの史代「長い道」「さんさん録」

 どちらかといえば前者のほうが下品で好き.

  • 紺野キタ「Dark Seed」
  • 長月みそか「HR」
  • 志村貴子「青い花」

 胸が苦しすぎるので二度読む勇気はないのだけど.

  • 山名沢湖「つぶらら」

 身につまされる.

  • 桂遊生丸「かしまし」
  • 介錯「鍵姫物語永久アリス輪舞曲」
  • 熊倉隆敏「もっけ」

 大きくなるのが楽しみになってきました.歳の離れた従妹弟たちを見るようだ.

  • 玄鉄絢「少女セクト」

 部屋が人いっぱいで狭苦しいのがいい.

記憶野原

小学1年生のときの担任の先生とご縁が続いていて,とはいえさっき15年くらいぶりにお電話した.

2年生に上がるときに辞められたのでてっきり定年だと思いこんでたのだけど,それは勘違いでまだお若いのであった.先生のゆっくりした上品な声は変わらないように思う.僕の声は大きく変わった.最後にお会いしたのは声変わり前である.

1年生のころみんなで遊びに行った原っぱのことを思い出して訊いてみた.それは四天王寺だったのだという.

僕の地図がまた広がった.

空き地には誰が立つのか

実世界の風景を鮮やかなものとして発見したのは,ご多分に洩れず大学生から院生の頃である.いやそれは遅すぎる,ふつう高校生だったりする? 異世界の話にばかり親しんでぼんやりと街を歩いてた僕にとっての風景は,ついに屋上から始まることになる.僕が触れたギャルゲーという奴の現実くささったらなかった.妖精とか出てきません.舞台は現代の街や学校で,メルニボネやミドルアースは目に見えなかったけれど,瑠璃子さんにならって屋上に立てば,そこに思い入れのある風景が生まれた.

ファミコンから始めて,スーファミ,パソゲーへと媒体を変えていったとき,パソコンの色数と解像度が見せてくれたものは写真みたいだったり画面いっぱいだったりする街の絵だった.グラディウスの宇宙でもアレフガルドのマス目でもなくて,そこは僕が歩いてゆくことができそうな場所に見えた.

場所には想いが繋がっているのだけど,それは場所に関する意味ではなくて,雨の日に傘をさして空き地に立ちつくしていた時の感覚というのは,単にゲームの1シーンを連想していたわけじゃなかった.意味なんてなかった.だから風景とか思い出だった.

さらば

河原町ソフマップではKID追悼特集の棚が大きくとられてましたよ.TVデモはメモオフ.
水姫
愛されてるなぁ.
僕にとっても,みなもや火星人や女子寮諸氏のような名作を残してくれたのに惜しいことです.

ところで,水姫が読みたい理由も判るけど,「こころ」は兄妹が出てこないのでお勧めしません.
ぜひ「三四郎」を.
男女関係なんてぐだぐだで,兄妹こそが美しい! という叫びのようなものを感じます *1