空き地には誰が立つのか

実世界の風景を鮮やかなものとして発見したのは,ご多分に洩れず大学生から院生の頃である.いやそれは遅すぎる,ふつう高校生だったりする? 異世界の話にばかり親しんでぼんやりと街を歩いてた僕にとっての風景は,ついに屋上から始まることになる.僕が触れたギャルゲーという奴の現実くささったらなかった.妖精とか出てきません.舞台は現代の街や学校で,メルニボネやミドルアースは目に見えなかったけれど,瑠璃子さんにならって屋上に立てば,そこに思い入れのある風景が生まれた.

ファミコンから始めて,スーファミ,パソゲーへと媒体を変えていったとき,パソコンの色数と解像度が見せてくれたものは写真みたいだったり画面いっぱいだったりする街の絵だった.グラディウスの宇宙でもアレフガルドのマス目でもなくて,そこは僕が歩いてゆくことができそうな場所に見えた.

場所には想いが繋がっているのだけど,それは場所に関する意味ではなくて,雨の日に傘をさして空き地に立ちつくしていた時の感覚というのは,単にゲームの1シーンを連想していたわけじゃなかった.意味なんてなかった.だから風景とか思い出だった.

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