会話とゆとり

2, 3年前の話である.相互の意向を調整したいとき,メールではなかなかまとまらないが,会って話せばぱっと収束することが多いと真砂町の先生が仰っていた.ここで比較されたのは言葉以外の情報の多寡ではなく,特にその厳密さである.メールはやりとりに時間をかけることが出来るし内容を読み返すことも容易であるが,会話のやりとりはスピードが速いため一つの話がまとまる前に次の話が発展する.そこでは右足が地に着く前に左足を上げ始めるような,厳密さでなくリズムによって前に進められる部分がある.次へ引き継ぐ話とまとまりなく残してゆく話とは瞬間的に選別されて,本当に調子のいい会話は忍者のように水の上を走る.そんなこと自分でもどうやって実現しているのかは判らないが,僕らは会話というものの中で無数の枝葉を生み出し,また残し,保留された世界の中を一本の筋として高速で駆け抜けることに,どうやら慣れている.

長い間喋る機会を持ってしまうと嫌いな相手であれ喋ることそれ自体は厭わなくなる.これははるか昔の話であるが,大嫌いな人がいて,でも僕はその人とは普通に話をしていたので後輩に不思議がられた.曰く,大人なんですね,と.あるいは長い付き合いで情を持ってしまったのかもしれない.しかし,当時はよく判らなかったが,今だとそれは,会話というものが何か気持ちを保留する遊水地のような場所を沢山備えているためであると思う.

「Φなる・あぷろーち」は会話の興味深いゲームである.水原涼の家に見ず知らずの少女(益田西守歌(しずか))が意味不明な理由で押しかける.涼はもちろん西守歌を狂人扱いするし理屈によって追い出しにかかるのであるが,西守歌のほうはのらりくらりとかわしてゆく.15歳にして女傑と呼ばれる(人物紹介参照)ぐらいであるから相当肝が据わって見える.つまり,ここは彼女がいかにして水原家へ居座るかという話である.例えば,会話というものは話を切り出すのが難しくて,話すのだか話さないのだかあいまいなまま先へ延ばされることがある.折り目正しく話を始めるには事件当日であるとか食後やお風呂の後とかのきりのいいタイミングでないと上手く行かない.よって,そこを狙い撃ちすれば核心の会話はいつまでたっても始まらないのであり,西守歌はあの手この手でこのタイミングを壊す.会話を始めないことによって会話は長くなってゆくのである.そして会話さえ繋いでゆけば,頭がおかしいとしか思えない相手でも会話を厭わなくなる.あとの残りは彼女の容姿や炊事掃除の技や憎たらしいがあっけらかんとした性格が助けになって,最後の駄目押しに自分の事情をちょっとほのめかして(ずるいです),無事彼女は水原家へ居座ることが可能となる.読んでいる僕のほうでも最初はこの人のことを蛇蝎のように嫌っていて,その気持ちはまだ変わらないのであるが,ただそれを保留できるだけの会話空間がこの頃には不思議と出来ているのであった.敵ながらあっぱれな奴じゃ.

最初の犯罪的な印象にも関わらず,西守歌のことを涼が受け入れるに当たっては優しいつくりになっている.その後,信頼できる人たちがみな彼女に青信号を出してゆくからである.この涼とその周りの人たちとの会話も良い.話は基本的に長回しの会話によって進められ,彼ら彼女らの気持ちは一つ一つその中で語られてゆく.例えば,本人に直接言えないような気持ちは信頼できる幼馴染への相談という形でやはり表に出される.大勢の人と会話をすることによって,いろんな場所にまとまりのない話が残されて,解けるようで解けないような気持ちを抱えて歩いてゆく.彼ら彼女らと話をするってことは保留可能な場所を生み出してゆくということで.僕がこの話のことを大好きなのは,そこに会話的なゆとりがあるためである.


φなる・あぷろーち (初回限定版)

φなる・あぷろーち (初回限定版)

オフィシャルページ
原作脚本:三浦洋晃

水原明鐘(いつか笑顔で……)編のみ読了.
いまどき両親が共働きで子供が二人ぽつんと家に残されちゃうことはよくあるんじゃないかと思っている.僕らがそうであって,そうしたとき異性の兄弟ってどういう風に大切にすればいいのかよく判らない.年が離れていればそれなりの距離を置けるかもしれないが,年が近くて家も狭いもんだからいつも二人だけでいて友達みたいになってしまった兄弟に対しては,他の友達に接する場合となにを変えればいいのか難しい.一つ思うことは,それが家族の特別な形であると考えると兄弟なのに仲良すぎやしないかと云々してしまうのであるが,友達の特別な形であると考えると少しすっきりする.血の繋がった友達がいたっていいじゃないか.

東京に下宿していた時の大家のおばちゃんから,毎年お兄さんと一緒に伊豆高原へ旅行へ出かけるんだという話を何度も聞いた.二人とももう連れ合いを亡くしているので,残った兄妹だけで仲良くしているのだという.しかしそれもお兄さんのほうが足を悪くしていてもう最後になるかもしれない,と少し寂しそうにしておられた.あるいはデパートの催し物会場で販売員のおばちゃんと話をしているうちに,いつしか僕はおばちゃんに服を選んでもらう流れに巻き込まれていた.いわく,昔,兄と二人暮ししていたときにこうしていつも見立ててあげてたのよということだそうで,僕は兄の替わりにされてしまったのである.幾つになっても兄妹は兄妹で.僕の理想をいえばそういう関係で,明鐘についてもこれ以外に考えられず,二人の別の結末について今は探す気がしない.

三浦氏といえば,「夢のつばさ」勇希編も.

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