ゆきてゆきし物語

後輩と議論をしているうちに午前0時,それからLaQuaへ向かった.そこは深夜にして極楽であった.湯がこんこんと湧き出ている.あの豊かな水量は弘法さんではなく行基さまの湯であろう,というのは相変わらずの奈良贔屓で,ついでに言うと近鉄奈良駅前の行基像の噴水が待ち合わせスポットである,というのは奈良の豆知識.

LaQuaは宿としてみれば一泊5000円なので安いしそれに温泉付きであるから150あるシートは満席であった.起きている人たちを見ると友達づれが多い.くつろぐことが出来るし,ちょっとしたお祝い気分に良い.というようなことを後で皆に報告したら案の定ジェットコースターのことを聞かれた.「ところで乗ったんですか」「あんなの乗ったら死んじゃう」.

LaQuaを出て春日の交番前で電動自転車(ヤマハのPAS)をレンタルしているのを見つけたから借りてみた.山の手の坂道を5kgの荷物かついで歩き回るのは億劫だったのである.結果,自転車にあるまじき馬力であの坂道が苦にならない.しかし,わーい,と乗り回しているうちにバッテリが半減したので,これは坂道をぶいぶい乗り回すものではなくちょっとした買い物のときに坂道があってそのとき楽をするためのものなのであろう.それにしても楽しかった.

以下の写真はその収穫.
旧町名案内・真砂町
「婦系図」の真砂町の先生のことがちゃんと書いてある.素晴らしい.

車やバイクに乗る人に何がいいのか聞いたら,みな行動範囲の広がるのがいいと言う.歩いていても自転車に乗ってもよく電柱にぶつかるうわの空な僕であるから(ちなみにLaQua内でも柱に頭をぶつけた)車やバイクは危険で乗る気がしないのだが,電動自転車くらいなら良いかと思える.スクーターは置く場所がない.調べてみるといまやかなりの種類があって,WiLLブランドの折りたたみ自転車などは非常にそそる.いざとなれば電車で帰ればいいのである.

僕が電動自転車に乗ったときの気持ちはおそらく「かえで通り」のあかりがスクーターに乗った時のものと同じだっただろう.彼女はスクーターに乗り始めてから少し遠出をするようになった.遠出をして知らない道を行くのが楽しい.だけどそのうち心細くなって帰ってきて,いつもの風景が近づいてくるとほっと安心する.とかそういう感じ.知らないところへ行けるような気がした.

帰り道には出来るだけ違う道を通りたくなる.遠出をするときでも近くから帰るときでもこれは同じである.行きの道と帰りの道が異なるとき,帰る気持ちよりは新しいどこかへ行く気持ちでいて,本当に帰ってきた感じがするのはようやく家が見えてきたあたりからである.金沢の泉鏡花記念館へ行ったときに龍潭譚のジオラマがあり,これが見る者にとって手前が物語の始まった場所であり,最も奥がその終着であるように作られていたのが印象深かった.龍潭譚とは少年が優しき姉上の元を離れ,躑躅の丘で斑猫に導かれて異世界へ迷い込み,うつくしき人と出会い,渡し舟に乗って再び姉上の待つ場所へ帰る話である.そうすると一見,少年が行って帰った話であるのだがそれはどうも後からつけたような考えであって,行く道は躑躅の丘,帰る道は渡し舟であるという落差からは,少年が終始どこかへ行く話であったとも感じられるのである.ジオラマではやはり手前に躑躅の丘,奥に渡し舟が配置されており,このジオラマの世界を行く少年は姉上の元から姉上の元まで一直線に旅をしたことになる.

帰り道が来た道を辿り直すものでない場合,そもそもそれは帰り道であるのかどうか怪しい.それは,ただ語られたり体験された順序のままに理解するほうが自然である.帰り道を帰り道らしく語ろうとすると,その道はしばしば省略される.あまりに重複が多いためである.

『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』の場合は,姫宮アンシーが彼女の元へやって来た天上ウテナと一緒に別のどこかへ行く話である.そこへ来た道すら示されない以上,あのカーチェイスは外の世界へ帰るものではなく,外の世界と呼ばれるどこかへ行くものとして感じられる.彼女らも確か,帰る,とは一言もいわなかったはずである.帰る,というとどうにもその場所が当たり前のものとして先に在ることになる.つまり,閉じた場所の外にある世界が行くべき場所であっても帰るべき場所でない辺りが好みである.

とかいう話は今木さんのとこの話がきっかけ.


鏡花短篇集 (岩波文庫)

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僕はこれで読んだ.

劇場版 (機動戦艦ナデシコ / 少女革命ウテナ / アキハバラ電脳組) [DVD]

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