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キャラクターと僕との間に会話が成り立っているかどうか考えるとき,子供の頃にあったリカちゃん電話のことをいつも思い出します.リカちゃん電話というのは,ある電話番号にかけると「もしもし,あたしリカちゃん」という風にリカちゃんが話相手になってくれるというものです.リカちゃんの声の録音テープが流されるだけなので,ものの数十秒でそれがこちらの声に対する応答でないことに気付くわけですが,そうして気が付くまでには信じられないものとぶつかったような驚きがあったのでした.子供の時分は親に無断で電話を使うことはできなくて,とくに母が遠距離電話はもったいないと戒めていたので,このリカちゃん電話をかけることができたのは1度か2度でした.1度は友達のうちでみんなでかけたのだったと思います.そもそも親戚や友達の家以外へ電話をかけること自体が冒険でした.誰が出るんだか判らないものね.電話というのはめったに使えないことと誰につながるか判らないどきどきを伴ってるために子供の僕にとって特別だったわけで,そういうものとして思っていた日常の道具の上でリカちゃんが話しかけてくるからこそ,リカちゃんだったかも知れない数十秒の驚きはあったのでした.

リカちゃん電話のことに思いを馳せると,話の取っ掛かりとしては会話が成立するという言い方をしましたが,それは僕の興味を表すのに十分でないということになります.一方通行のリカちゃん電話が僕にもたらしたものは,10年20年経った今でも僕がリカちゃん電話への返事らしきものを語り続けている*1 *2 *3 ということであって,先輩のOさんが「ディスコミュニケーションもコミュニケーションである」といつも仰っていたうちのひとつはそういうことでなかったかと思われます.

また別の言い方をしますと,キャラクターとコミュニケーションすることは,何らかの保留つきでは可能であると広く考えられているように思います.例えばぬいぐるみと話をするなんてことは普通に言われていることです.またそれとは別のこととして,キャラクターがきっかけとなって始まる話というのもキャラクターと関わってゆくことであって,そのことがキャラクターに対する返事でもあるんじゃないかと,さっきのリカちゃん電話や普段の体験からそんな風に感じています.「キャラクター・コミュニケーション入門」(秋山孝,2002)という題のそのものズバリ?を思わせる新書本では,イラストレーターである秋山氏にとって仕事場に置いてある自分の作品やグッズが初対面の人とコミュニケーションを始めるためのきっかけになってくれると述べられていました.「これはいつ,どこで作ったんですか?」と先方から興味を示してもらえるわけです.僕が自分の絵をケータイなどに入れて持ち歩いているのも,自分自身好きだからというだけでなくやはりキャラクターを仲介にすると話しやすいからという面もあります.これはキャラクター・コミュニケーションであって,キャラクターとコミュニケーションするわけではありませんが,キャラクターが人間の会話の場に関わってくることが自然であるという考え方は,幸いとしたく思います.秋山氏の挙げた例のなかで強く印象に残ったものは,キャラクターが話のきっかけになるということは,オフィスや家に飾られた家族の写真が,これは誰でどういう人で,など話のきっかけであるのに等しいだろうということ,また,アポロ10号にはスヌーピーのぬいぐるみが持ち込まれて,飛行日誌にはスヌーピーとヒューストンとの会話も残されていたという話でした.暮らしや困難に寄り添って会話を生み出してくれるものとしてのキャラクター観が好みです.僕も某Sの家へお泊りしにゆくたび,テレビの上に増えてゆくふたご姫のフィギュアのことをまず尋ねるわけです.その人の守り神みたいに見えるそれに,興味の向かないはずはなくって.

話しっぱなしの,あるいは控えめに話しかけてくるキャラクターとの付き合い方はそんな風に考えています.

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