東京星物語

眠れないのであと少しだけ昔話に付き合っていただければと.

東京で暮らすことになったその日のこと,さっそく夜まで作業をしていて帰途についたのは遅くなってからだった.僕は方向音痴であるし辺りは真っ暗で道は入り組んでいたから,これはまず地図を買う必要があると思ってまだ開いていた小さな本屋さんへ入った.このへんの地図はないかと尋ねるとレジのおっちゃんは胡乱な目で僕を見て,何に使うの?と聞いてきた.どうやら怪しい販売員か泥棒かと間違えられたようだった.今日越して来たばかりだから道が判らないんですと必死に弁解すると,今度は文京区役所が配ってる便利地図のようなものと銭湯の場所とを丁寧に教えてくれた.

銭湯暮らしには慣れていて,広いし沸かさなくていいしお金がなかったら行かなければいいしで気に入ってもいた.ただ営業時間だけがきつくて0時で終わってしまうためいつも23時50分ごろに駆け込む始末であった.関西弁でそれでいつもぎりぎりの時間にやってくるので印象深かったのか,そのうち番台のおばちゃんが色々話しかけてくれるようになった.テレビの話とか大学の話とか,僕の顔色の話とかである.ところでおばちゃんにはもう一人いて,どういう関係かは判らなかったが少なくとも親類か家族であろうと思った,その若いほうのおばちゃんはいつもより早い時間に行くと会うことが出来た.そのうち不意にそちらのおばちゃんも僕に話をしてくれるようになって面喰らった.つまるところ裏で話が繋がっていて,誰か一人が友達になったら全部筒抜けで一緒くたなのであろう.最初のおばちゃんは落ち着いていて優しい感じがしたが,こちらのおばちゃんは何にでも興味を持って泣き虫で子供が好きではっちゃけた人だった.

東京へ来てから三度目の海外,イタリアへ行ったとき,ふとお土産を買って帰る相手がいないのは寂しいと思った.そのとき脳裏に浮かんだのが大家さんのおばちゃんと,この銭湯のおばちゃんたちの顔だった.大家さんのおばちゃんには地中海らしいデザインのテーブルクロスを,銭湯のおばちゃんたちには皆で食べられるようなお菓子を買って帰った.振り返ってみると子供みたいな僕がよくそんなことやったなと思うのだが,いつものおばちゃんにお土産ですと言って菓子箱を一つ渡して,それで何かスイッチが入ったみたいにそういうことが出来るようになっていた.それからもずいぶん仲良くして頂いた.

四年経って東京を離れることになって,その前にと若い方のおばちゃんに食事に誘われた.そんな風に改まって誘われてみると何だかどきどきして,そんな感じのまま待ち合わせの場所に行くと,待っていたのは何故だかもう一人のおばちゃんのほうだった.何か計画に乗せられたみたいに変に思ったけれどその疑いはすぐに晴れた.つまりお二人と食事をするということだったのである.僕のほうとしてはお二人と同時に会ったことはなかったので想像がつかなかったのであるが,お二人は姉妹で,一緒であることが当たり前という風だった.なんかどきどきしたのが馬鹿みたいで笑ってしまった.

あとこれは自分でも仰っていたことなので書いてしまうが,姉妹の順序が僕の思っていたのと逆であった.よく間違われるそうであるが,これにも驚いた.本郷通り沿いの小奇麗な中華料理店でランチをご馳走になり,少し歩いて金魚坂でお茶をした.小さい頃のお話をたくさん聞いた.お姉さんのほうはやんちゃで,いつも市場のお店の前に貼りついては店の人が切ったり練ったりするのを見ていた.昔,湯船とは別に川みたいな水路があって,ぷかぷか浮いて遊んだ.金魚が好きで,今でも脱衣場の水槽に金魚がいる.妹さんのほうは静かな子で,ほとんど外には出なかった.絵に描いたようなでこぼこ姉妹が話すのを僕はうっとりと聞いていた.

妹さんは図書館へ行くというのでそこで別れ,お姉さんと一緒に帰った.このへんに図書館ありましたっけと尋ねたら,お姉さんはよく知らないと答えた.

翌日,金魚坂で目をつけておいた金魚の小さな人形を昼食のお礼に持っていった.一つずつと思って二つ買ったのだけど,妹さんのほうには別のを渡したほうが良かったかなと少し後悔した.

京都へ来てしばらく経ってから郵便が届いた.妹さんのほうからで,手紙とハワイのお土産だというシャツが入っていた.手紙を書いたりするのはやっぱ妹さんのほうだよなと思って,少し思い出して,懐かしく思った.

僕は7月にオランダへ行って,今度はシャツのお礼にとチョコレートを持って銭湯を訪れたら驚いてくれた.「また遊びに来るって言ったじゃないですか」「そう言って本当に来る人はいないですよ」 お風呂上りに缶ビールをたくさん貰って帰った.気分が良くて道すがら開けて飲んだ.またあの本屋さんの前を通って,ちょうど欲しいコミックがあったので寄っていった.おばちゃんがレジをしてることが多くて,おっちゃんが居たのはあれ以来のことであった.酒神に感応したのかおっちゃんが僕を呼び止めてお酒の話を始めた.おっちゃんがこの界隈で一番酒が強いことと,あとおいしいお酒の飲み方を教えてくれた.

きっとおっちゃんは僕があのときの僕だなんて覚えていなかっただろう.だけど僕としては最初と最後に会ったのがこのおっちゃんだというのがおかしくて,泊まりの鳳明館でビールをもう一本空けた.なんだかそれでようやく東京にひと区切りついた気がしたのだった.

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