D.C. ふたたび,みたび.

無限にループする曲でない限り,D.C.がなくとも楽譜を書くことは出来る.

D.C.という標語があるのは,終盤で主題へループする構成が好まれがちであったことと,そうであればD.C.を用いて書くほうが見た目に訴えるし合理的でもあったからだろう.いま僕らがよく目にする楽譜が生まれるまでのお話は,人が形式や構造に慣れ親しんでゆく歴史と重なるんじゃないかと思うのだけど,この話は前から気になりつつもまだ本格的に勉強しはじめる取っかかりがない.

キーボード買おうかと,何度か迷っている.

ところで,D.C.は奏者によって無視されることがある.素朴な遊びの上での話で,僕はFineを無視して飽きるまで繰り返し弾いたことがあった.しかし,これはD.C.が記されているからこそ思いつく遊びである.D.C.という標語は楽譜にそうした操作の手がかりを与えることによって,音楽をちょっぴり愉快なものにしている.

たぶん,ちょっぴり,とね.

見た目がはっきりしていたり合理的であったりする手順というのは,機械的なしくみを呼び込みやすい.D.C.やD.S.,Fine,Codaなんてのは楽譜の上を行ったり来たりさせる決まりきった指示で奏者を操る.もちろん奏者も楽譜を操る.

機械が人にどんな新しい形をもたらすのか,あるいは人がどう形を使いこなすのかという話.新しい機械は新しい形をもたらすだろうけど,機械に慣れてくると,機械化できるところが機械化されてゆく.そこにあると期待される形が機械化を呼び込む.

そして,女の子が12人いるからこそ分岐する機械が盛り込まれるんだとか,そういうお話.

5時間か6時間,止まらず喋り続けてくれる機械がある.そこには12人だか何人だかの姦しい人たちがいるので,その機械は文字通りのchatterboxと呼んでいい.このような機械がそばにあるのは大変ありがたいことで,しんとした時には誰かが喋っているということがただそれだけでこの世に生を吹き込むものであると思われる.

まずはそこから,ささやかな想像がはじまる.

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