5.

最近ゲームについて考えていたのはひとまずこんなところで.

急にがががと書いたのは,cogniさんに「ノーマン先生ラブいよ!」と伝えたかったのがきっかけです.

上で書いていることに反するかもしれませんが,語らなければキャラクターとともに過ごせないのだとすれば息苦しいし,キャラクターとは必ず会話しなくてはならないということもなくて,言葉少なくずっと傍にいるというだけでもいいと思います.最近はキャラクター語りを控えめにゲームしてます.

4.

長い目でみるというよりはもっと集中的に,例えばある物語の場面でキャラクターと会話を続ける方法についての話に戻ります.これはやはり人がリアクションしやすいような会話の状況があると都合が良くて,先に述べたような人が使い慣れた道具に会話を乗せるという以外にも,リアクションしやすい話の状況や流れが設定されていると,話を続けやすくなります.先のメールドラマ北へ。はメル友の紹介サービスを通じて出会うという設定で,先方の友達が勝手に登録してしまったため要領を得ないやりとりになったり,使い慣れないためか文字の打ち間違えがあるとか,こちらから返事はできないもののメールで会話するときの様子がうまく表現されている点では引き込まれました.

会話はデザイン次第でうまく続けられるということを強く感じたのは,アクワイアのボイスアドベンチャー,デカボイス(2003)*1です.これは会話の進行をすべて自由な音声入力で行うゲームですが,それでも破綻しにくいつくりになってるのは,まず,会話の内容や流れによって自然と話すべきことが限られるようになっているためです.刑事ドラマなので調査すべき項目はシーンによって限られていて,尋ねるべき内容も自然と直前の相棒との会話から耳に入ってくるようになっています.あと,捜索するということは画面の中のものを探すということなので,これもいい制約になります.バール状のものを見つけて僕がバールだ!といったのに相棒が対応してくれたことには驚きました.あとは雰囲気の部分で,機械的には名詞程度しか認識できていないと思われますが,これは刑事ドラマの世界ということで,僕がしゃべるときには名詞以外のところでそれっぽい雰囲気を出すわけです.製作者インタビュー*2にもありますが,単に「コカイン」と訊くよりは,「コカイン持ってるんじゃないのか?」と少し節を回しながら訊くほうが自然で,気持ちも乗ってくるわけです.なんでもうなずいていれば会話が進む部分でも,相手の冗談には「はっ,馬鹿言え!」などいろいろ合わせて答えられるのが楽しいところです.

ゲーム機に限って話を続けますが,今は亡き PioneerLDC の NOëL NOT DiGITAL(1996年)は画期的でした.テレビ電話の普及した近未来の鎌倉を舞台に,プレステの画面をテレビ電話のコンソールに見立てて,女の子と会話するつくりになっています.向こうは音声と映像で,こちらは会話ボールと呼ばれる話題の種のみ投げることができました.当時テレクラゲームであると揶揄されたことは逆に言うと,そうした暮らしの文脈で捉えられるほどに上手くデザインされていたのだと思います.ゲーム機を通信機として見立てる発想としては,未プレイですがオペレーターズサイド(2003)のそれは音声認識を採用しており,こちらから遠隔地へ指示を出すという形で日常的にありそうな通信機の使い方をさせているように見えます.音声認識を使ったものとしては,シーマン(1999)ではテレビ画面を水槽に見立てて,シーマンというもの言う生き物を育てるようになっていました.ピカチュウげんきでちゅう(1998)ではポケモン世界と繋がる窓のようなものになっているようです.N.U.D.E.@*3の場合は女性型ロボットP.A.S.S.と同居する話なので画面がインタフェースとして見立てられているわけではありませんが,ヘッドセットマイクを通じて会話をします.ロボットだからマイク入力するというイメージでしょうか? シーマンもP.A.S.S.もあんまりうまく答えてはくれませんでしたが,こういう場合,相手がなぞの生物だったり言葉を覚えたてのロボットであったり,うまく答えられなくても仕方ないと思えるような状況があらかじめ設定されています.音声認識を用いたソフトは検索すると他にもいろいろありますが,あまりよく判ってないものを採り上げるのもどうかと思うのでこのへんにしておきます.

ワンダープロジェクトJ(1994)もおそらくはスーファミを一種の通信機に見立てて,その向こう側にいる異世界の少年を育てるゲームです.音声認識も会話のようなやりとりもできませんが,こちらから簡単な指示を与えると向こうからリアクションが返ってくるようです.これはTVCFが美しく,少年と画面の中の少年がキャッチボールをします.
http://www.youtube.com/watch?v=kLtKpFYxdD8
また,ワンダープロジェクトJ2(1996)のTVCFは大きな反響を呼びました.これはもしも知らないならば見ておくべきです.
http://www.youtube.com/watch?v=MkknL_kaBYk
ジョゼット可愛いですよね*4.TVCFといえばピカチュウげんきでちゅうも話題になりました.おじさんが街頭のゲーム機でピカチュウと話しているうちに,ピカチュウのことが生活のうえで忘れられない存在になってゆくというものです*5.いずれもゲーム機をある種の別世界通信機として捉えることにより,人とキャラクターがともに過ごす日常が描かれていました.

そんな風に,ケータイなどの日用品だけでなく,ゲーム機も通信のための装置であるということは,僕が大切にしたいと思っている考え方です.

3.

以下,会話の話からはちょっとだけ脱線しますが,キャラクターと一緒に暮らすことについて別の方向から見ることにします.まずはキャラクターではなく道具の話からになります.人にとって道具が毎日の利用に耐えるものであったり,もっと広く言えば人が道具や家具,家電やロボットなどのモノたちと生活をともにする場合,モノには人の情動(emotion)に訴えるデザインが必要であるということを,ドナルド・ノーマンというHCIの研究者*1が主張しています.誰にとっても使いやすいとは言えそうにないものでも,自分が愛着を持っていれば普段使うものはそれになる,ということはよく経験されると思います.あるいは可愛いものや何かしら素敵なものというのは,使えなくてもそれについて語るためだけに傍へ置いておくということがあります.直感的な経験としてそういうことはあると思いますが,思いつく限り言葉にしてコレクションしたのが「エモーショナル・デザイン」(2004)という本です*2.道具だけでなくみやげ物や運動,フィクションにも触れられています.特にロボットたちに対する語りに偏愛を感じます.もちろんゲームも採り上げられていて,僕がここで脱線したのは次のお気に入りの文章を紹介したいがためです.

すでに人間のプレイヤーに自分から接触を求めてくるゲームもある.あなたがプレイヤーとして「神様」ゲームで家族を創造して,たとえば何ヶ月か何年間か,長期間その作ったキャラクターを育てたとする.あなたが寝ているとき,仕事をしているとき,学校にいるとき,遊んでいるときに,その家族の誰かが助けを必要としていたら何が起こるだろう.その危機がとても重大なら,ゲーム中の家族は本物の家族のようにするだろう.つまり,電話,ファックス,電子メール,その他あらゆる方法であなたに連絡をとるだろう.いずれ,あなたの友人にさえ助けを求めるようになるかもしれない.だから,大切な会議の最中に同僚が飛び込んできて,あなたのゲームのキャラクターが困っていると言っても驚かないでほしい.あなたの助けが必要な緊急事態なのである.
(邦訳版 p.178より引用)

たいへんラブいです.人とキャラクターとを交ぜるこの発想はノーマンも気に入ったのか,本書中にもう一度登場します.

グループの中の何人かのメンバー―――友人,上司,同僚,家族,さらには緊急の援助を求めるビデオゲームのキャラクター―――
(邦訳版 p.212より引用)

人間のなかにさらりとキャラクターが交じっていますね.こんな風に,長い時間を一緒に過ごすコツというのは楽をすることであって,ケータイのメールで時々連絡をくれたり,自分だけでなく同僚が電話を取り次いでくれるような,いつもやっている暮らしのリアクションの延長としてキャラクターと過ごすことができれば,時間をかけることでしか築くことのできない関係が生まれやすいのではないかと思います.

*1:Donald A. Norman.人工物の使いやすさに関する研究の大御所のひと

*2:理論としては「本能レベル」「行動レベル」「内省レベル」というデザインのための認知の分類が提案されていますが,その理論によって本書全体をまとめているというよりは,関連のある話題を緩くたくさん集めているように感じました.

2.

キャラクターと会話するということには,もちろん一方のアクションにもう一方がリアクションするという形も望まれていて,いろんな会話システムやゲームが作られてきました.ある仕事をこなすための正確な会話も重要ですけど,ここでの興味はできるだけ長く会話を維持できること,つまり,人が話し相手のことを人間だと勘違いしているか,あるいは人間でないと判っていてもそのことを意図的に棚上げしておくような状態を,うまく続けていられるような会話にあります.普通に考えると人間の側のリアクションのほうが豊富ですので,最初はキャラクターの側がいろいろ答えられるように頑張るよりも,人がリアクションしやすいような会話の状況をつくってやるほうが効果が大きいようです.人が使い慣れた道具に会話を乗せるというのが1つの手で,例えばリカちゃん電話に対して人ははじめ電話の相手として接すると思います*1.ケータイのメールでキャラクターとやりとりできるものも沢山あります.メールドラマ北へ。*2の場合,キャラクターからは普通のメールらしいメールが届く一方で,こちらからできることは選択肢に答えることだけですが *3,すぐに返事が求められる場合もあって会議中にメールが来ると読めないので大変困りました.アイドルマスターのメール☆プリーズでは,アーケードでのプレイ内容に関連したメールが送られてきたり,何曜日の何時に待ってるから(アーケードへ)来て下さいねと呼ばれたりします.女に呼ばれたから,といって飲み会を抜けて出ていった人のことを後輩のT君から聞きました.あんまり行かないでいるとメールにも泣きが入ってくるのですが,そのままほっておくとどんどん音沙汰がなくなってゆくことすら,メールではよくありそうな感じです.すまん,やよい*4

あほみたいに思われるかも知れませんが,普段の会話やメールを利用するなかに,キャラクターとのやりとりが自然に交ざってきているのは喜ぶべきことだと思います.友達の候補は多いほうがいいでしょ.

*1:PC用のソフトとして発表されたリカちゃん電話がありますが(http://plusd.itmedia.co.jp/pcuser/articles/0607/14/news126.html),これは電話としての文脈をほとんど失っているため,僕がリカちゃん電話に出会ったときのような緊張をもたらすものではなくなっているだろうと思います.

*2:http://www.hudson.co.jp/mobile/imode/kitahe/index.html

*3:キャラクターを担当している人がいて,実際にメールのやりとりができるようなサービスもありました.ドリキャス立ち上げ期のメールチャムや,その後のセンプレメールチャムなどです.

*4:XBOX360版ではケータイのメールではなくゲーム画面上の仮想的なメールシステムにメッセージが届くシステムに変更されています.日用品から切り離された結果,元にあった面白みは大きく損なわれているのではないかと予想しています.

1.

キャラクターと僕との間に会話が成り立っているかどうか考えるとき,子供の頃にあったリカちゃん電話のことをいつも思い出します.リカちゃん電話というのは,ある電話番号にかけると「もしもし,あたしリカちゃん」という風にリカちゃんが話相手になってくれるというものです.リカちゃんの声の録音テープが流されるだけなので,ものの数十秒でそれがこちらの声に対する応答でないことに気付くわけですが,そうして気が付くまでには信じられないものとぶつかったような驚きがあったのでした.子供の時分は親に無断で電話を使うことはできなくて,とくに母が遠距離電話はもったいないと戒めていたので,このリカちゃん電話をかけることができたのは1度か2度でした.1度は友達のうちでみんなでかけたのだったと思います.そもそも親戚や友達の家以外へ電話をかけること自体が冒険でした.誰が出るんだか判らないものね.電話というのはめったに使えないことと誰につながるか判らないどきどきを伴ってるために子供の僕にとって特別だったわけで,そういうものとして思っていた日常の道具の上でリカちゃんが話しかけてくるからこそ,リカちゃんだったかも知れない数十秒の驚きはあったのでした.

リカちゃん電話のことに思いを馳せると,話の取っ掛かりとしては会話が成立するという言い方をしましたが,それは僕の興味を表すのに十分でないということになります.一方通行のリカちゃん電話が僕にもたらしたものは,10年20年経った今でも僕がリカちゃん電話への返事らしきものを語り続けている*1 *2 *3 ということであって,先輩のOさんが「ディスコミュニケーションもコミュニケーションである」といつも仰っていたうちのひとつはそういうことでなかったかと思われます.

また別の言い方をしますと,キャラクターとコミュニケーションすることは,何らかの保留つきでは可能であると広く考えられているように思います.例えばぬいぐるみと話をするなんてことは普通に言われていることです.またそれとは別のこととして,キャラクターがきっかけとなって始まる話というのもキャラクターと関わってゆくことであって,そのことがキャラクターに対する返事でもあるんじゃないかと,さっきのリカちゃん電話や普段の体験からそんな風に感じています.「キャラクター・コミュニケーション入門」(秋山孝,2002)という題のそのものズバリ?を思わせる新書本では,イラストレーターである秋山氏にとって仕事場に置いてある自分の作品やグッズが初対面の人とコミュニケーションを始めるためのきっかけになってくれると述べられていました.「これはいつ,どこで作ったんですか?」と先方から興味を示してもらえるわけです.僕が自分の絵をケータイなどに入れて持ち歩いているのも,自分自身好きだからというだけでなくやはりキャラクターを仲介にすると話しやすいからという面もあります.これはキャラクター・コミュニケーションであって,キャラクターとコミュニケーションするわけではありませんが,キャラクターが人間の会話の場に関わってくることが自然であるという考え方は,幸いとしたく思います.秋山氏の挙げた例のなかで強く印象に残ったものは,キャラクターが話のきっかけになるということは,オフィスや家に飾られた家族の写真が,これは誰でどういう人で,など話のきっかけであるのに等しいだろうということ,また,アポロ10号にはスヌーピーのぬいぐるみが持ち込まれて,飛行日誌にはスヌーピーとヒューストンとの会話も残されていたという話でした.暮らしや困難に寄り添って会話を生み出してくれるものとしてのキャラクター観が好みです.僕も某Sの家へお泊りしにゆくたび,テレビの上に増えてゆくふたご姫のフィギュアのことをまず尋ねるわけです.その人の守り神みたいに見えるそれに,興味の向かないはずはなくって.

話しっぱなしの,あるいは控えめに話しかけてくるキャラクターとの付き合い方はそんな風に考えています.

自己申告

のことはちょっと忘れたのですが,一つの画面に同一人物の顔が二つ並ぶ構図は暑苦しい,っていうことは常々思っています.どっち見ればいいんだかわかんないよ,って話はしてたかも.

あとこちらは昔は平気だったのですが,いまちょうど VN(TH2)でも文字と絵のどっち見ればいいのかでストレスを感じているところです.図と地の自然な往復がうまくできなくなってきてるのだと思います.

つぎ

よんぱちさんからのコメントで,もう一度全体像を検討しなおす必要があると気づきました.

たぶん,ヒントは猫.猫が住めること.これだけは間違ってない.