ヒャッホウ

今でもまだケーキを眺めてどれか一つを選ぶというときにはモンブランを選ぶ割合が高いのですが,僕はじっさい栗が苦手です.姉の好物はだいたい苦手.芋蛸南京,玉蜀黍,烏賊.蛸焼きは蛸を残して周りを食べるもので,しかし最近はもったいない気がするので蛸ごと食べます.話逸れた.

美凪に因むことと栗が苦手であるということを両方かかえる,そんなことがよくあります.

実に面白い,というようなストレートに面白がっている口ぶりには,自分で書いていても苛立ちがちです.しかし,それはそれで美凪が好きだというようなことを言うためには書かざるを得ないことであったりします.だけど栗は苦手.

chatterbox (おしゃべりな箱)としてのそれ.

元長柾木で例を挙げるなら,というかもともとそれで意識したのだけど,未スをで朝になると始まる椎奈や霞たちの止まらないおしゃべりがある.地の文もあったろうけどフロレやsense offと比べればずいぶんな前のめりで会話文が続く.当時はそういう文章をおかしいと思ってたのだけど,最近になってあれは文章というつもりではなく声として置かれていたんだと考え直している.

D.C. ふたたび,みたび.

無限にループする曲でない限り,D.C.がなくとも楽譜を書くことは出来る.

D.C.という標語があるのは,終盤で主題へループする構成が好まれがちであったことと,そうであればD.C.を用いて書くほうが見た目に訴えるし合理的でもあったからだろう.いま僕らがよく目にする楽譜が生まれるまでのお話は,人が形式や構造に慣れ親しんでゆく歴史と重なるんじゃないかと思うのだけど,この話は前から気になりつつもまだ本格的に勉強しはじめる取っかかりがない.

キーボード買おうかと,何度か迷っている.

ところで,D.C.は奏者によって無視されることがある.素朴な遊びの上での話で,僕はFineを無視して飽きるまで繰り返し弾いたことがあった.しかし,これはD.C.が記されているからこそ思いつく遊びである.D.C.という標語は楽譜にそうした操作の手がかりを与えることによって,音楽をちょっぴり愉快なものにしている.

たぶん,ちょっぴり,とね.

見た目がはっきりしていたり合理的であったりする手順というのは,機械的なしくみを呼び込みやすい.D.C.やD.S.,Fine,Codaなんてのは楽譜の上を行ったり来たりさせる決まりきった指示で奏者を操る.もちろん奏者も楽譜を操る.

機械が人にどんな新しい形をもたらすのか,あるいは人がどう形を使いこなすのかという話.新しい機械は新しい形をもたらすだろうけど,機械に慣れてくると,機械化できるところが機械化されてゆく.そこにあると期待される形が機械化を呼び込む.

そして,女の子が12人いるからこそ分岐する機械が盛り込まれるんだとか,そういうお話.

5時間か6時間,止まらず喋り続けてくれる機械がある.そこには12人だか何人だかの姦しい人たちがいるので,その機械は文字通りのchatterboxと呼んでいい.このような機械がそばにあるのは大変ありがたいことで,しんとした時には誰かが喋っているということがただそれだけでこの世に生を吹き込むものであると思われる.

まずはそこから,ささやかな想像がはじまる.

梓弓

正倉院展に出ていたのであるが,解説に樹種不明とあった.
梓じゃないのか?

母がしきりに後醍醐天皇の,と言っていた.
その場ではどうも繋がらなかったが,如意輪寺にある例の楠木正行の句である.

小学校の遠足で吉野へ行った時は,その堂の前でみなお昼を食べた.
これからどこへ出陣しようというのか.

ブラウン通りへ

「気持ちは嬉しいけど、
 着替えは一人でするよ」
「で、でも……」
「慌てなくても、時間はたっぷりあるんだ。
 イチャイチャするのは後に取っておこう」

ええこと言うなぁと思った.将来に対する意識のもちようがね.

「リズィは俺で良いと言ってくれた。
 俺はそれが嬉しかった。
 だから結婚した」
「貴方はリズィの事をどう思ってるのよ!
 好きなの?
 嫌いなの?」
「好きでも嫌いでもない。
 嬉しかったんだ」

その場所ではたとえば,
今日好きな人のことを明日には嫌いになるだろう,
という類いの悲しみを抱える必要はなくて.