リピュアの方向。 #1,#2

今まで探した中ではAmazonの感想さんたちが原作を素朴に褒めていると思いました.そこで使われてる不思議なとか雰囲気とかいう言葉のなかでは原作の混乱した走りっぷりは前向きに愛されてるはずで,そういうわけで吾人もまた100メートルくらいあごが落ちています.あごは後で拾いにゆくとして,一番気になったところだけを挙げると原作サイドに立つならアニメ版においてお風呂で身体の変化を確認させたのは段取りに過ぎると言えます.いちいちそんなことをしないで気が先に走ってゆくのが漫画のほう.

リピュアに対して怒る人がいるだろうと思えた程度よりも激烈に怒る人がいるように想像します.怒る人がいないという気はしないのだけど,一方で,そもそもシスプリの頃のように両方知ってる人の感想をまだ今回ほとんど見ないので,さみしくはある.

アニメのほうは伊藤郁子の絵とSuaraの歌を楽しみに見てます.話にも一体どうするのかしらと期待させるところがあります.

あさっての方向。のアニメについて,薫さんへのコメント.

だんじょん商店会

懐かしすぎるのでこばさんのお話と勝手に連動.

1999年の1月頃に書いた記事を掘り出してみました.
過去の恥ずかしい文章は積極的にさらすというのがおそらく本サイト唯一の方針らしい方針です.
http://storybook.jp/waffle/nekomori/index.html

魔法使いグループが好きだった.チェルシーについて何か書こうとしていたはずだけどもう忘れてしまった.ゲームブック版についての話だったかもしれない.

山田J太「あさっての方向。」1-3巻

大人の身体から子供の身体へと変わってしまった椒子さんは,自分の表情を上手く作れなくなってしまう(2巻P.54).顔の筋肉のつき方が違ってるのだからそりゃそうであるのだけど,他にもたくさん不都合があるはずなのに初めて困るのはそこですか.もちろん,簡単には考えの及ばない部分だからだと思うけど,いじらしい.

身体の変化によって,気持ちのほうも変化していることに気付くだろうし,周りの反応が変わったことにも気付くだろう.椒子さんにはその両方があるのだけど,子供から大人へ変わってしまったからだちゃんは周りの変化にしか気付くことが出来ない.歳をとるほどに自分の身体のことが経験されるものだから椒子さんのほうは身体と気持ちの交わりかたが変わったことに敏感なんだけど,ちっちゃいからだちゃんにはよく判らなくてバランスを欠いた脅威に晒されてしまう.変わるのが周りばかりっていうのは怖いんじゃないかね.

ところで3巻に椒子さん出てこないのはがっかり過ぎる.

若沖

気分転換に国立近代へ.鶴がたくさん,水辺にそらに.粟岳高弘が描いたみたいな顔も交ざっていて愛嬌がある.

若沖のは鶴のまあるいお尻を十二連というのがよかった.正確にはお尻ばかりではないが一筆にまあるく大きなお尻を描いて並べるというところが着想とみた.かわいい.

自転車で白川沿いを下る.短大の前で学生たちが川さらいをしている.裾をまくって浅い白川の流れに二本足立ち.鶴とはいわないがこれもまたいい.

閉店のせまる京都近鉄で最後の秋の味覚,松茸.うまうま.

貧乏姉妹物語 #4

きょうとあすは姉妹だけど肌の色指定が違う,というのはなんとなく見ていても気付かれるところだと思うけど,ふたりが手を繋ぐとそこでいっそうよく判る.姉さんであるきょうのほうはほっといても脂がのってしまう年頃であるし,体を動かしているのであすよりも血色がよく見えるということか.中学生であることによって小学生よりも脂肪がついたり無理がきいたりする内分泌系の働きの違いというやつは,姉さんが妹の血色をよくしようと頑張れるほどに,妹がいる場所へ追いつけなくしている.気持ちとしては妹のそばへゆきたいのに,自分ばかり血色がよくなっていってしまう,そんな年頃のこと.

もっとも,きょうのあすに対する追いつけなさについては,いつもの薫さんによる声のリアリティ *1 *2 でぴたりと説明できるところですが.

僕としてはたぶん,内分泌系云々という妙な発想に先立ったのは,この絵の具だかなんだかの肌色がまさにこの人たちの肌に等しいのだと思われたこと.

手を繋ぐこと

幼稚園から小学校の頃にかけて,僕の手のひらはふくよかで気持ちいいという評判で,唯一姉による評判ではあったが僕にとっての評判とはそういうもので,そしてよくふにふにと触られていたものだった.ボールもバットも握らない,レゴブロックより重い物を持ったことがない,あと牛乳ばかり飲んでぽちゃっていた運動不足のたまものであるが,愛されるというのは嬉しいものだからこの手のひらは僕の自慢だった.

手のひらについては良くない記憶もある.いつ頃までのことだったかは覚えていないが,母と手を繋ぐことなしに歩くことが出来なかった.母の手が心地良かったという記憶はまるでなくて,ともかく繋いでいなくちゃならないんだという強迫ばかり覚えている.母はいつも手が重いと言っていた.20キロかいくらかある半自走式の塊を引っ張り回すのは確かに大変だったろう.遠足の時などは手を繋いで二列で歩くということがあって,このときも手を繋げと言われればけして離さなかった.そのふくよかな手でぎゅっと握り続けてるものだから汗をかいて相手の女の子は暑くるしいといって怒っていたのであるが,頑固に離さなかった.手を繋ぐとか綺麗に並ぶとか言われた形にこだわり過ぎる子供だった.

中学へ上がると身体が縦に伸び,毎日硬くて重い学生鞄を持ち歩いたものだから,僕の手のひらは男の子みたいな手のひらになっていった.今の僕にとってそれが誰のための手のひらであるのか,どのように嬉しい手のひらであるのかは昔ほどはっきりとは判らない.よって以下は想像の産物である.

手を繋ぐといえば電撃!!イージス5のActIIが思い出される.逆瀬川秀明と佐々巴が事実上の初デートに赴くとき,鴻池琴梨からデート繋ぎをするよう指示される.これは手を繋ぐことが気持ちよりも先に立つのを判ってるわけで,助平なものだなと思った.いや,正確には喜んだ.なんの好意も前提とせずに男女が手を繋ぐことはないわけであるが,手を繋ぐことによっていっそうどきどきしてしまう気持ちよりは手を繋ぐ行為が先行する.気持ちが盛り上がったから手を繋ぐのではなく,盛り上げるために手を繋ぐのである.手順というのはそうでなくては回らないのであるが,当事者にはなかなか気づかれないものなので琴梨のような正確な外野は有り難いと思う.

事態に巻き込まれている当事者,ここではとくに恋愛を言うのであるが,その当事者らしさが薄れて事態が飲み込めてきたとき怠惰がおこる.ストロベリー・パニック!の花園静馬はもはや手を繋ぐことの効用など知り過ぎていて注意を払わなくなっていたからこそ,蒼井渚砂にされた普通でない手の繋ぎ方に不意を突かれ,完全に参ってしまった.多くの時間は静馬のほうが渚砂に触れようとあれやこれやしてくるのであるが,最初の一撃はむしろ渚砂が静馬の手のひらを掴んだことであって,手のひらというのがそれだけの衝撃を持ちうるというところに僕は真っ先に惹かれたのだった.