Act.II

琴梨がありがたいと思うのは,とにかくどんな失敗料理でも美味そうにぱくぱく食べてくれることだ.(p.19)

育ち盛りの女の子5人を養うには甚だ心もとないが,秀明のせいというわけでもない.このあたりはちょっと泣けた.秀明の料理が上手くなるにつれ博士は帰らなくてもよくなってくるわけであるが,一年が過ぎて妹がその腕前に驚くほどになる頃には今度は家が消滅し,いったん博士が帰るしか仕方なくなる.食事は時が解決してしまうので,博士が一度帰還する話の都合上,屋敷が吹き飛ぶのだと言い換えてもいい.

博士が旅に出るのは今度は自分の意思であるため,もはや食生活だけでなく事件の上でも博士の帰還を待つ必要はない.あとは何だ,いつか娘さんたちが屋敷から卒業してしまう日のことをつい想像してしまってセンチメンタルになる.

Act.IIIからAct.Xくらいまでが走馬灯のように頭を巡った.子供とかできてます.

谷川流「電撃!!イージス5」

食生活の拙い話.衣食住のうち衣服は実家から持ってくればいい,住居は博士のものが残されている.服と家とはあることにして,子供所帯の足りてない感じはご飯をうまく作れないところにぜんぶ現れている.日々の食事っていうのは服や家よりも不慮のことに備えるのが難しいのだね.両親がすぐに帰ってこれなくなった夜,家でお腹空かして待ってた子供の頃の気持ちを思い出した.博士はどうやら思いがけない事故をきっかけとして遠い場所から帰るに帰れなくなってしまったような様子であって,彼ら服でも家でもなく食事にこそ不自由するっていうのは博士が帰って来るのを待つことに近いと思う.あの家に博士がいないことは何か穴でも空いているように感じるのだけど,もしも料理の上手な人があそこにいたとしたら,この穴は今ほどには意識されなかっただろう.

彼らに年相応の料理の腕しか期待出来ないところがお気に入りである.五人の中でいちばん上手いのはおそらく佐々巴.彼女の自己申告ではあろえや埜々香よりはよほど巧く作れます!ということであって,嘘をつく子ではなさそうだし中2中1よりも高1のほうが上手であるというのも妥当な線だからそれでいいと思った.逆瀬川秀明が博士の家にやって来てからというもの巴がご飯を作ろうとしなくなるのは,大学生のお兄さんに下手なお子様料理を見せられないっていう高校生らしい恥じらいだと思う.

掛川あろえについて.保健の先生の談話より.

ここに来たらよくあなたの話ばっかりしてるわよ(P.153)

後半よりも前半が気になる.ここに来たら? 秀明がやって来てからこれまであろえは倒れたことがなかったので,つまりあろえと埜々香は保健室へ話をしに集まってくる子たちなのだろう.校舎中に確たる居場所を求めがちであるのだね.

ハルジオンもセイタカアワダチソウも小学校の通学路でよく見かけたものだった.ハルジオンは音で記憶していたので春紫苑と書くのだと初めて知った.逆さまな話であるが,おかげで見たことのない紫苑の花をうまく想像することが出来るようになった.よく似た花にヒメジョンがあるが,僕は区別をつけられない.名前ですらうっかり交ざってハルジョンになる.セイタカさんのほうは当時その花粉が体に悪いと言われていたので,自分の背丈よりも高く群れをなしている空き地の前を,いつもこわごわ息を止めながら早足したものである.

セイタカの空き地はいつしか駐車場になり,家が建ち,今ではもうそこになにがあるのか思い浮かべることが出来なくなっている.

Computer Computer Interaction

インタラクションのなかに人にとって自然な有り様が認められるというのは,Eliza のように人工物から人間へ直接働きかける場合だけでなく,人工物同士のインタラクションの間にも普通にある.1995年に発表された Talking Eye *1 *2 は,人工物同士が「そんでなぁ」「うん,うん」と相互にかたちだけの呼びかけや合いの手を生成する中に,見る人が会話らしさを認めてしまうものであった.

それはそうとして,Talking Eye はその後 Muu と呼ばれるロボットへと発展した.Muu のコンセプトは「一人では何もできない」*3 である.早見裕司ファンとしては「アンドロイドは,手がかかるように,あるべきなのだそうです」(野良猫オン・ザ・ラン)というフレーズの思いだされるところである.昨年見学した際には移動能力をもつ Muu が開発されており,僕の足元をちょろちょろとくっついて回った.僕は大はしゃぎしてお姉さんに子供みたいだと評されてしまったのだけど,そのとき僕は必死にまとわりつこうとする Muu に胸がきゅんとしたのであった.

語の使われ方から見た Interaction

人と人工物とのやりとりに着目する場合,Computer Human Interaction (CHI) もしくは Human Computer Interaction (HCI) は Computer Human Communication / Human Computer Communication よりもよく利用され,情報科学における著名な会議・学会名にもなっている.Human Human Communication というのは Human を省略したとき Communication という語がふつう人のそれを指すためにあまり使われないが,情報科学では Communication といえば通信のことを指したり,相手が人間でなく人工物であることも珍しくないので,人間同士のそれであると確認したり強調したいときに使われる.Human Human Interaction という言い方も Computer Human Interaction に比べるとあまり使われないが,人同士の Interaction のみを人と人工物との間のそれや一般的な Communication と区別して同じ程度の広がりをもって議論する意義は,現在,共有されていないということだろう.

あとは言語と同じようには扱いにくい音声や身振りについて論じるとき,人同士でも Interaction という語が使われがちな気がする.

以上では Computer に対応する語として人工物を当てている.現在,家電やロボット,住居や町などのさまざまな場所に Computer が埋められて人とやりとりをするのが普通になって,従来,独立した計算機として議論してきたことの延長でそうした人工物も語られるようになっている.ここではHCI 分野で取り扱われている範囲を正確に書きたかったので一般的ではないがこのように当てた.Computer の含む範囲が広がった結果として,Interaction という語に対して○○Interactionと限定する意味もなくなりつつある.人と誰か何かとの Interaction が僕らの暮らしにおいていつでもどこでも起こっているという認識の元で,ただ「インタラクション」とのみ呼ばれる国内会議がHCI分野においてこのところ盛況である.

情報科学の歴史から言えば,HCI分野やその近辺では人がものを言わぬ機械とやりとりすることに着目してきたため,ものを言わぬ側にとって出来ることが高度になってきた今でも引き続き Interaction という言葉を用いるのだと思う.一方で人の言語・会話能力に着目する立場からは,音声/言語/コミュニケーションと,音声以外の非言語的表現をそこに加えるくらいの区分けから始めたので,たどり着く先が人と人工物がやりとりするという同じような場所であったとしても,Interaction という語はあまり使われていないように見える.

Just Communication

(文脈略)

内側に何かあることを前提としない言い方を選ぶならば,インタラクションという言葉が当てられると思われます.アクションが相互に起こっているという見た目だけを出発点にすることで,意味を問うことは難しいままだけど行為として作り出す分には簡単であるときの様子を取り扱いやすくなります.作り出すということに着目すると,人に話しかけてくる人工物ならば Weizenbaum の Eliza (1966)を祖として,チャットに登場する人工無能や今ならば BlogPet のようなかたちだけの会話をつくる方法,実世界においてもペットロボットにやらせていることなどを見ていても,素朴に行為を作り出すことの面白さは長らく人の興味を引き続けているようです.人間同士だってあまり深く考えないほうがよいような場合であるとか一種の遊びとして,意味のなさそうな声やしぐさを作ることはあって,そのような僕らの日常の有り様がこれまで人同士の(あるいは人と人工物との)やりとりを論ずる上ではこぼれがちであった,とかいうことはおそらく何度も指摘されているとは思われます.

それでもインタラクションという言葉が改めて興味を引くのは,ビデオゲームにせよロボットにせよ,昔に比べて豊富なアクションを生成できるようになったことと,必ずしも特定の誰かへ宛てられたものでないブログや Web 日記において,ただ相互にアクションが営まれるという僕らのよくある有り様の,なかでも言葉についてのそれを明示的に記録してゆくことが普通になってしまったこととかのためでしょうか.インタラクションと呼ぶほうが妥当に思われることは昔からずっとあるのだけど,それは今,とても目につきやすいものになっている気がします.