スピリットオブセンチメンタルジャーニー

あんまり気分が酷いので,こういうときのためにとっておいた 北へ。DiamondDustDrops 白石果鈴編 を取り出して,なんとか再生してみる.こういうときのためにとはいうが,この行動を起こすまでが辛かった.

そして,大傑作である.息を吹き返した.姫!姫!と馬鹿みたいに繰り返し言いたくなる.いや,初対面の研修医の人にちゃん付けで呼ばれたのを嫌がったら,以後,姫付けで呼ばれるようになるの.果鈴姫!

ジャーニーの杉原真奈美編に関してもその入院生活の自分との近しさについていつか書いたけれど,それが今の時代だったらこうなるだろうね.長期入院から退院するまでのお話.動かせない体のため止まることのない想像を書き留めるものは,筆記具でなくノートPC,手紙でなく電子メールとなるわけである(ゲーム版でもそうだけどね).消灯超えてもこそこそやってたよなぁ.真奈美との関連で言えばもちろん若先生(研修医)の検診は恥ずかしかったり.ゲーム版との繋がり,つまりゲーム版の主人公とは離れたところで女の子の側の生活や恋愛の模様が描かれるという点においても正しくジャーニーを受け継ぐ者であるね.水姫には必ず見せねばなるまい.

ゲームのほうにしてもDDDにしても誰かひとりと恋人のように想い想われる関係が築かれるというよりは,たくさんの大きな人たちに果鈴が愛されるお話.ほんにまぁ,すごい愛されっぷりでね.素敵だ.

大文字

奈良から帰ってきた翌日は五山送り火.久々にサークルの後輩たちと落ち合って,うちの屋上で見た。大文字が真正面に見える.あと妙の字の半分,舟形のてっぺん.屋上は先日防水工事をしたとかで大家さんにヒールで上がるのはやめてねとお願いされた.樹脂に穴があいてしまうとか.しかし,心配ご無用のラインナップである.

五山も良かったがよく晴れていたので星ばかり見てた.キャンプファイアである.

おとといの夜,別のビルの屋上で大の字になった.星はきれいだったけれど,もう肌寒かった.

鈴木式電磁気的国土拡張機

粟岳さんの漫画は大学生の頃の僕にとってはえっち漫画に分類されていて,つまりえっちだと思えるほどの距離があったわけだけど,31歳になったいま久しぶりに読んだらそれが近くなってて,ストレートに好ましい漫画だった.歳をとって良くなることをまたひとつ見つけたよ.
世の中えっちなものはいくらでもあるけど,近しいものっていうのはそんなにはない.
ところで灼熱の惑星ミシヨセカナは逆さから読むとまるちぷるCAFEのなかせよしみ氏になるのであるが.いや,なんか気付いたので.他は判んないし.

贈答

未来世紀ならまちに出てきた天極堂の葛菓子である.話をするわりには食べたことがなかったのだけど,先日,実家から送ってきたので今こうしてお夜食となっている.

東大寺さんの天極堂を少しゆくと祖母の家である.春に帰った折には手ぶらであるところを母に見とがめられ,その場で果物やケーキを持たされた.お土産といって祖母に渡したけれど誰が買ったものかは顔に書いてあっただろう.帰りしなに八ツ橋をこうてきてくれへんか,と言付かった.初盆には帰るやろ,そのときに.生ではなくて焼いたほう.そうだ,八ツ橋は焼いたに限る.ともあれ,なにが欲しいか先方から言ってもらえるのは有り難く,きっと入門者向けの措置だったろう.

都合が良いことに聖護院八ツ橋は大学の裏である.紙袋提げて奈良へ帰った.自慢するほどのことでないがちゃんと自前のお土産であることが嬉しくて,今年はいつおばあちゃんとこ行くの,帰るなり母に聞いたが,今年はうちの初盆やしいかんつもりやったとかいう.いや,せっかくお土産もって帰ってきたんだからと目的がすり替わりつつ,僕が灯花会を見たことがなかったので,せっかくだから家族みんなで見に行こう,その途中に祖母の家に寄ればいいということになった.

なら灯花会は8月のはじめからお盆にかけての一大イベントで,元となった行事は古いものだが,多くの観光客を集めはじめたのはちょうど僕が奈良にいない間のことである.東大寺へ入るために列をなすなどお正月でも見られないことだ.この日は大晦日同様,大仏殿の窓が開かれて大仏さんのお顔を外から拝むことが出来る.中では読経の声がする.東大寺は昔からBOSEのスピーカーを使っている.

灯花会では一客一灯,訪れる人はひとりにひとつ,東大寺,春日野から浅茅が原,春日大社にかけて,望みの場所へ灯火を置いてゆく.写真は春日野から東大寺を臨む.中央右奥は東大寺の屋根.ここはいわゆる奈良公園の一角である.春に祖母から聞いた笑い話であるが,ある日,中年の女性に道を尋ねられての問答,「奈良公園の入り口はどこですか?」「ここら一帯が奈良公園ですねん」「入るのにおいくらかかりますか」「お金なんかとりゃしません」

蝋燭は水の入ったコップに浮かべる.火が消えてもはしからボランティアの人びとがまた点けてゆく.最終日は公園じゅうが灯火で埋め尽くされる.

僕も一つ.少し離れた見晴らしの良い木の傍へ置いた.この灯を点すときには祈りを込めるそうである.

さて,お土産の顛末は次のとおりである.東大寺へ行く途中,祖母の家に立ち寄って,お供えですと言って紙袋を仏壇へ置いてきた.祖母はなんじゃろな,と思ったそうである.後で電話をかけてきて,そういえばお使いを頼んでたなぁ,あれはわたしが頼んでたもんやさかいお金払わんとあかん,だなんて妙なことになった.なにゆうてんの,あれはお供えやからいいって.もろといて.いや,ちゃんと払わなあかん.いやお供えやから,云々,と押し問答をしつつなんとかおさめた.あの祖母のことだからもしかすると孫からお土産をもらうような隠居であると思っておられないのかもしれなかった.僕がもらってばっかりで.せめて,あと何度のお土産だか.

フラワーズ

いかん,思わず読み耽ってしまった.迷羊を辿ってONE(swimming sheep)から三四郎,フロレアール・初夏(swimming boar),フラワーズへ.久しぶりだ.

全身全霊で詩的.というのは,女の子たちの初登場が場所の制約にとらわれなくて,海くんがななせさんと話しながら歩く間,海くんが折にふれて思いだす順序のままに,時と場所を越えていつかの女の子たち(らみか,さと子,るな)との会話が何度も再現されてゆくのでした.思いつくままくるくると背景(つまり時と場所)や女の子が回転してゆくのは,海くんの心に寄り添ってるようで素敵.僕のほうとしてはこれで女の子みんなのことを知ったような気でいて,実際に対面してるのはななせさんとみりんだけなのであるなぁ.

にしてもシスコンのことをよく判っていらっしゃるのね.シスコンというのは姉や妹への好意が問われる以前に,人と喋るとどうも姉や妹の話ばかり出てきてしまうという行為を指す.兄妹姉弟が仲良く暮らすというのはそういうことである.

あとななせさんは浜っ子なんだなぁ,と今さら.じゃんじゃん言ってるということにこれまで気付かなかった.ななせさん年上だから緊張して,時々そんな風にくだけた口ぶりになるのが判んなかったのかも.

ところで,挿入されるカットが目にもとまらぬ速さであることが多くて,ときに何が起こったか判らない.これ間のとり方が実行環境に依存してるんじゃないかと思うんだけど,対処方法はないのかなぁ.