「うた∽かた」(8/31)

まとめ.
・1話,2話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041218#p1
 ぐるりと巡って,僕としてはだいたいこの第1話のときの感想で満足しています.
・3話,4話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041218#p4
 一夏には悪いけどこの時点で一夏は最後まで足りないままだろうと思っていました.案の定,12話ではまだまだ中学生臭い語りで締められることになるのだけど,それでも,なにがしかの言葉に出来たのが良かったと思います.どんなへなちょこだって言葉にしておかないと思い出せなくなってしまうから.
・5話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041219#p1
 視力の話は確かに強調されているのだけど,僕はどちらかというとそれを言語化するときに出涸らしとして残った100円ノートの感想文のほうが気になります.
・6話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041219#p2
 演出の慎みのなさについて.12話でも同じことが言えると思います.
・7話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041219#p3
 ひと夏の交霊体験について,その2.
・8話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041219#p4
 意図と手段と結果とがズレていることについて.その1.
・9話(2話) http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041227#p3
 意図と手段と結果とがズレていることについて.その2.
 月のジンが光るだけっていうのはほんと良いです.
・10話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041228
 お墓参りとルーツの話.
・11話,12話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20050124
 前半はおまけです.雪の女王の話をどこかでする機会を窺っていただけ.
 「まあそれはともかく,」以降が本題.
・11話,12話 http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20050125
 沙耶さんの言うことは真に受けなくてもよいと思います.
・13話 
 http://storybook.jp/rst/narrativelog.html#23
・10話と魔女の血脈
 http://storybook.jp/rst/narrativelog.html#23b
・沙耶さん
 http://storybook.jp/rst/narrativelog.html#24b
・牲贄の試練
 http://storybook.jp/rst/narrativelog.html#24b
・夏休みの宿題について
 http://storybook.jp/rst/narrativelog.html#29c

前後の繋がりが悪い文章というのはつまり僕自身のことなので,そこんところがくっきり見えるように思うのでした.


ほかの人の興味深い文章.

http://d.hatena.ne.jp/./imaki/20050101#p2
 いっそ読み捨てられるような,ノスタルジーとして.
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/anime/1101143436/338
 薄っぺらさとか一夏の今後とか,怒らないこととか.確かに心配.
http://d.hatena.ne.jp/./mhk/20041227
 ジャンルで斬っちゃうとすれば.


うた∽かた Summer Memory BOX 1 [DVD]

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充実した冬のひと夏をありがとうございました.

夏休みの宿題

例えば,筋金入りのよそ者が,友達のいない女の子と一緒に,夏休みの宿題で町の歴史を辿るお話.

劇場版AIR 劇場版AIR

ミナミノミナミノ (電撃文庫)

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変な宿題が出たり変な客人が来たりするのは夏休みと相場が決まっている.

なんてね.

AQUARIUM(うた∽かた#11#12)

新しい物事とたくさん出会う年頃,それが何歳であるかは人それぞれであるが僕だったら13歳から23歳くらいまでの間,頭があふれそうになりながらも自分なりに切ったり貼ったり捨てたりしながらなんとか判るように整理してゆく.その一つのやり方として祈るということがある.20台前半の僕は,人工衛星の軌跡を見たり道路の下を流れる水の音を聞いたり鎮守の森を歩いたりすることで不具合に満ちた頭の中を言葉に変えていった.東京へ行ってからというものその当時の気持ちは完全には思い出せなくなってしまったが,そこに何か言葉を当てはめるとすればそれは祈りであるとか,より俗っぽい言い回しである拝むという言葉が適当であったように思える.一夏とジンとの関わりあい方は誰にも理解されることのない,いつか彼女自身だって忘れてしまうだろう一夏流の拝み方で,それは安っぽいアイテムを使うものだったり,支離滅裂だったりする.そしてうた∽かたとはそこから始まった彼女がなんとか自分に判る言葉を紡ぎあげてゆく過程の話であったように思える.

例えば第10話におけるお墓参りは一夏が混沌から言葉を導き出すための大きなヒントを与えているように見える.そこでは両親の口から一夏の誕生にまつわる不思議な話が語られる.自分の起源というのは一筋縄では答えられない難解な問いであるが,誠実そうなこの両親が語る夢は娘の一夏にとってひとまずの回答となる程度には信頼のおけるものだっただろう.そのためか彼女が繰り返し見る海の夢は第11話では舞夏の作り出すうたかたとしての自分という起源的なものへと変化し,形を得てゆく.

舞夏が何者かというのはよく判らないが,少なくとも一夏と舞夏の間には鏡のあちらとこちら側,波打ち際のあちらとこちら側というような境界線が強く意識されていることは見てとれる.それは第8話の夢で舞夏と一夏の首絞めが入れ替わる様子や,第10話において舞夏が彼岸の者たちと対面し一夏は彼岸の者たちと同じほうを見ているシーンを経ることによって,どうやら彼女らの懸案事項は生と死に関することであり,そこで境界線とはこの世に生を受けて立っているのが彼女らのうちどちらであるか判らないような眩暈をもたらすものとして作用している,というくらいはなんとか言えそうである.

太極図,ジン,七つの大罪などと沙耶の節操ないめちゃめちゃ感はつまり一夏のそれと同じであるのだが,心情としては恣意的なルールを振り回す沙耶の言うことよりも舞夏の言葉を信じたい.そうするとこれはやはり夏休みの宿題であって,夏休みの宿題というのは強制的にやってきて,いつもとはどこか違う大人くさいことを仕方なくやらされたり考えさせられたりする内に,出題者には想像もできないし知ってほしくもないような自分だけの鮮烈な思い出を残して去ってゆくものであって. ここで舞夏というのは生命のスイッチを入れる者としてイメージされる誰かかもしれないし,一夏の雛人形とも言うべき形代かもしれないが,よく判らない.判っているのは,由比ヶ浜の海と旧校舎の大きな鏡から始まって自分のルーツについて色々考えた少女の夏があったということで,それが一篇の詩としてノートに一生懸命綴られたということで.僕もそのノートの中の出来事をまるで見て来たことのように感じたという,ただそれだけのことである.


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うた∽かたと鏡

さて,余談が過ぎたかもしれないが,うた∽かたの沙耶について雪の女王の話を借りて語るとすれば,彼女が口にするルールとはどちらかと言えば悪魔の鏡のほうのルールであって,ちゃんとしたルールがあるのか疑わしい,恣意性を感じさせるものである.正直,関わり合いになりたくない.しかし,そういう悪魔の鏡について僕は中学から高校にかけてたくさん考えたように思うのである.例えば人の幸福には総量があって,それが時代や感情によって配分されるものだと,ある時期,夜眠る前にはいつもそんなことを考えていた.それはある種のメーターとしてイメージされたが,何がどういう仕組みでそれが配分されるものだったかは今となってはもう思い出すことができない.あらゆることにいちいちルールがあるように感じていたのだろうが,そんなことをいちいち真に受けていたら頭がパンクしてしまう.一夏のいう「試されている」感覚もそんなわけのわからぬ写像たちに押しつぶされそうな時期に垣間見るルールであったように思う.

だから,物語は理知の鏡の助けを借りて収束する.一夏や誓唯にとって悪魔の鏡によってもたらされた事態は,人と(どちらかといえば)対称性を持った映し身である舞夏や繪委の存在があってはじめてなんとか手に負えるものとなる.(ついでに言うと繪委は家庭教師としては理系担当である.)彼らは彼らの出来る範囲において悪魔の鏡の事情を人間くさい言葉や連想の世界に落とし込んでくれる.このとき彼らと対峙する沙耶も,人を超越した存在というよりはアニメ版の雪の女王のように人間とは違う存在でありながら,よく語り,人間くさい小狡さを持っているため,全く取り付く島もないような存在ではない.歪んだりわやくちゃだったり,対称性を備えていたり,人を映しどこか人間くさい感じを受けるような鏡の諸相としてそれらはまとめられている.

まあそれはともかく,僕が一番気に入っているのは一夏の周りにある幼くて断片的で不完全なルールに満ちたごちゃごちゃした様子である.例えば,勾玉のペンダントは太極図の白と黒であり,幸運グッズとしてよくある類のものである.それは神精霊(ジン)と呼ばれる存在を呼び出すためのもので,舞夏の説明によると「あなたたちの言葉だと,神様とか,妖精とか,精霊,ってとこかな.」である.ようはなんでもありで,なんなのか良く判らない不思議な存在であり,夢見がちな女子中学生が好みそうな代物で,やっぱりそれは過剰で支え切れないような,無意味なルールの爆発なのだと思う.そんなところにルールはないなんて言わないで.「見られている」とか「試されている」とか言葉じゃ本当は足りなくて,何かあるんだけれど言葉にできないあの感じである.それは頭が整理された後には残らない,不完全で,安っぽくて,断片的な形でしか表すことの出来ないものであり,うた∽かたという作品にはそんな愛すべき混乱が満ちていた.


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もうじき発売される.買うべし.BOXで買うと高いが,バンダイチャンネルならば7話まで1000円程度で視聴できるのでこちらも.
http://www.b-ch.com/contents/utakata/
公式サイトでは,舞夏版の各話予告編が公開されており,そこでは「不思議な体験,させてあげるよっ」が決め台詞となっている.端的に過ぎるが普段は,不思議な体験,とまとめてしまって構わない話ではある.なにぶんこの手の話について語るときはこちらも物語のように語らざるを得ないので長くなる.

ただし,描かれていることを一つ一つ紐解いてゆくという点では,こちらのページが素晴らしい仕事をしておられる.必見.
http://utkt.hp.infoseek.co.jp/

12話まで見終わって,寂しくなったのでシュガーを見始めた.
OVAとして13話が制作されるとの報は素朴に嬉しい.

雪の女王と鏡の諸相

僕が初めて知った「雪の女王」は幼い頃に見たソビエトアニメの「雪の女王」(監督:レフ・アタマーノフ,1957)である.アンデルセンによる原作童話(「雪の女王 – 七つのお話からできている物語 -」)を読んだのは大人になってからで,しかしそれは幼い頃の記憶とはずいぶん異なる物語であった.原作はキリスト教色の豊かな物語であるため,当時のソ連ではそのまま大衆映画とするのは難しかったのであろう.この改変のためかアニメ版の女王は原作と比べて人間臭くなっており,また原作において項が費やされ印象深い場面で登場する鏡について,アニメ版ではほとんど語られることがなくなっている.

アニメ版で省略された部分に注目してあらすじを書くと,原作の雪の女王とは次のような小さな七つのお話からなる物語である.なおここで原作とは「完訳アンデルセン童話集(二)」(大畑末吉訳,岩波文庫)に収録された話を指すものとする.


1.悪魔が鏡を作った.その鏡はおよそ美しいものを矮小化して映し,役に立たないものや醜いものをより大きくして映すものであった.悪魔は鏡で天使や「われらの主」を映そうとするが,その途中で鏡は砕け,何億万よりももっとたくさんの破片が人間の世界に降り注いだ.


原作では悪魔の「鏡」と雪の女王の「理知の鏡」の二つの鏡が登場する.理知の鏡とは7つ目の話に登場する雪の女王の王座であり,数学や言語を連想させるものとして描かれている.主人公の少女ゲルダの旅のきっかけとなる鏡の破片は悪魔のほうの破片であり,またこの二つの鏡の関係は明示されない.しかし,アニメでは悪魔の鏡と「われらの主」のお話が省かれているため,悪魔の鏡と理知の鏡を合わせたような別の鏡を登場させることによって辻褄を合わせている.


2.ゲルダとカイという仲の良い女の子と男の子が居た.ある年の冬,二人はおばあさんから雪の女王の話を聞いて,カイは雪の女王を溶かしてやると言った.その日,カイの部屋の窓の外で雪の女王が手招きをした.夏になって,ゲルダとカイはバラの賛美歌を覚えた.それが二人の最後の蜜月となり,ある日,鏡の破片がカイの心臓に刺ささったため,カイは大人の言葉に興味を持ったり理科に興味を持ち始め,お子さまのゲルダをぞんざいに扱うようになった.また冬のある日,カイは雪の女王に魅了され,ゲルダのことや街のことを全て忘れ,女王の城へと連れてゆかれた.


全体を通して眺めてみると悪魔の鏡の話が理知の鏡の話へとずれてゆく流れを見て取ることが出来る.1つ目の話において悪魔の鏡はずいぶん困ったものとして描かれたが,ここで鏡の破片によって分別くさくなったカイは「たしかに,あの子は,すばらしい頭をもっている.」として一部の大人によって評価されている.ここで女王との出会いと悪魔の鏡がカイに突き刺さることに直接の因果関係は示されないが,時間的な順序がたまたまそうであったようには書かれている.また,カイは鏡の破片によって分別くさくなったとされており,理知の鏡の性質を考えると雪の女王と悪魔の鏡との間にはなんらかの関係がありそうな気にさせられる.悪魔というどうにも手に負えない話はいつしか数学や理科や言語のような人間の手に負える話とすり替えられることによって解決に近づいてゆくのであって,ここではその巧みな交差が描かれている.

アニメでは鏡に関する話の全体における重みが下がったためか,理知の鏡は望遠鏡のような魔法の鏡としてスケールダウンしている.それは(おそらくカイの)おばあさんによると「女王の宮殿には不思議な氷の鏡もあるんだよ.女王様がその鏡を覗くと,自分の支配する全てのものが鏡の中にすぐに映し出されてしまうんだ.」というものであり,女王はこの鏡を通して「(雪の女王は)怖くなんかないぞ」とカイが言ったことを知り,彼に罰を与える.怒ってその場で氷の鏡を割り,その破片を嵐に乗せてカイの心臓へ突き刺すのである.「氷の破片に突き刺された者は,冷酷非道な悪人になるがいい.」 そうするとこれは女王の怒りと少女の愛とが対峙する女の戦いであり,[母=雪の女王,白雪姫=カイ,王子様=ゲルダ]とすると白雪姫の構図として親しみやすい物語にもなっている.ここで魔法の鏡というのは数学や言葉やらの理屈くさいものではなく人間くさい気持ちを引き起こさせるものになっている.

再び原作の話に戻るが,こちらでは雪の女王とカイとは罰を与えるような関係ではなく,そもそもカイは「怖くなんかないぞ」とは言わない.ただ,彼は「ミツバチの中には,女王バチのいることをちゃんと知っていた」理系に強い少年だったので,雪の女王がいるとすればストーブで溶かしてやれるということも容易に想像できて,それを口にしただけなのである.女王はどうやら理系の話を好んでおり,カイが話す分数の暗算や国の平方マイルの話をしじゅうニコニコとして聞いている.「けれども,カイは,自分の知っていることは,まだまだ,十分ではないような気がしました.」そして彼はおそらくは数学やシンプルな言語体系のみから成る世界の深みへはまってゆく.


3.次の春にゲルダはカイを探す旅に出掛けた.ゲルダは魔法使いの花園に囚われるが,バラの花のおかげで魔法が解けて逃げ出した.逃げ出した時には季節は秋になっていた.
4.ゲルダはカラスからカイの消息を聞き,お城へ忍び込んだ.人違いであったが,王子,王女と仲良くなり,暖かい服と馬車をもらって再び旅に出た.
5.馬車が山賊に襲われた.ゲルダは山賊のむすめのものとなった.ゲルダは森のハトからカイの消息を聞き,むすめにトナカイを与えられてラプランドへ旅立った.
6.ラップ人とフィン人の女に助けられながら旅を続けた.ゲルダが「主の祈り」を唱えると天使の軍隊が現れて,雪の女王の軍勢を蹴散らした.


原作ではバラや主の祈りが神のご加護を示すものとして登場するが,アニメ版ではバラは賛美歌との関係なしに二人の思い出の花となり,祈りの言葉も登場しない.


7.雪の女王は普段お城の大広間にある氷の湖の中心に座っていた.氷には無数の細かいひび割れがあり,割れたかけらは全て同じ形をしていた.女王はこれを「理知の鏡」と呼んでいた.カイは氷の破片を並べて意味のある言葉を作る「理知の氷遊び」をしていた.「永遠」という言葉を作ることが出来たとき,女王はカイを自由にし,またこの世界と新しいスケート靴を与えると約束していたが,難しくて出来なかった.ある日,女王はレモンやブドウの木がうまく育つようにイタリアへ雪を降らしに出掛けた.ゲルダはたまたま女王が不在である間に城へ到着し,ゲルダの涙はカイの凍った心臓を溶かし,バラの賛美歌を歌うと鏡の破片は取り出された.ゲルダの幸福そうな様子を見て氷の破片たちが動きはじめ,正解の言葉を作り出した.(女王は不在であったが)約束に従ってゲルダとカイは城を出た.故郷へ帰ると二人はいつの間にか大人になっていた.おばあさんは聖書を読んでいた.「なんじら,もし,おさなごの如くならずば,神の国にはいることを得じ.」季節は夏,子供のままの心を持った二人の大人がそこに居た.


雪の女王は寡黙である.余計な説明はしないし,彼女の思想について語るということもない.どうやら彼女は理系少年であるカイを見初めて城へ連れて来たように見えるが,実際のところどうかはよく判らない.問題が解けたら(一人前になったら)自由にしてやりこの世界を与えようとまで言うのだから,カイのことを可愛がってはいるようである.女王はルールを好み,カイに課した問題もそうであるし,またイタリアのブドウの木のために雪を降らしに出掛けるのも自然科学的なルールを想像させる.

一方で,アニメ版の女王はいろいろ語ってくれる.「これから素晴らしい北の国へ連れて行ってあげるのだからね.そこへ行けばなにもかも忘れてしまうのだよ.そしてお前の心は氷のように冷たくなってしまう.喜びも悲しみも感じなくなってしまうのだ.ただあるものは静けさだけ.それが,幸せなのだよ.」あるいは女王とカイはこんな話をする.

カイ「(氷の大きな結晶を見て)すごいや,まるで宝石みたいに綺麗だ.」
女王「そうだよ,カイ」
カイ「こりゃあ面白いぞ,曲がった線なんて一本もないや」
女王「お前は本当に賢い子だね,カイ」
カイ「だけどちっとも匂いがしないんだ.」
女王「カイ,いままで何度も言い聞かせてあるだろう.花の香りとか,美しさとか,喜びとかは真実とは言えないのだよ.お前はこの世のものすべてのものを忘れ去らねばならないのだ.」

カイの幾何学への興味についてはここで唐突に語られるが,原作ほどにクローズアップされないため周りから浮いた印象を受ける.また,幸せについて語り,真実について断じることによって,ゲルダの敵としての人間くさい雰囲気を感じさせている.原作ではついに雪の女王は帰還しない,つまるところ人間のすることなどにはあまり興味がないわけであるが,アニメ版では戻ってきてゲルダと対峙する.そして結果はあっけない.「雪の女王ね.カイは私のものだわ.あなたには渡さない,渡すもんか.どうしてあなたは黙ってるんですか.消えてよ!消えてよ!行って!」「ゲルダ,私の負けだわ……」簡単に終わる.ともかく愛は勝つのである.

こうしてアニメ版と対応させて読んでゆくと,原作の雪の女王において鏡がどういうものであったかがよく判るように思う.鏡とは写像であり,一定のルールに従ってあるものを別のあるものと対応づける.ルールとは言っても恒等写像や逆写像のような写像は人間にとって理解しやすいが,この世に在り得る写像のほとんどは滅茶苦茶で意味の読み取れないものである.僕にとって理知の鏡のルールのほうはまだなんとか理解できる気がするが,悪魔の鏡のルールはなんでもありでとても手に負えない.そして数も多い.無数のルールがあることは混沌に他ならず,ここで言うルールとはそういう性質に注目された意味でのルールである.またアニメ版の魔法の鏡とはルール云々というよりは人間の姿を映し出すことによって何か俗っぽい感情を引き起こさせるものでもある.

ラジオ星通信

正月の同窓会で,くだんの漢文の先生の訃報を聞いた.いつも真面目に同窓会行事に参加していないため全く知らなかったのであるが,去年の七夕の日,つまり僕がオランダに居た頃に亡くなられたとのことである.いくら電子メールが通信にかかる時間を短くしても社会的な距離までも都合よく埋めてくれやしない.これはいつかの日本の通信事情とは全く逆の話で,電子メールはラストワンマイルを高速化しているに過ぎず,そのバックボーンには速度差の大きな社会的通信の世界が広がっている.何を言っているんだろう.ともかく,そういう遅れてくる訃報がこのところ何件もあった.訃報が全く行き渡らない話としては「百鬼夜行抄」を思い出すが,僕も妖怪みたいにぶらぶら好き勝手やってるから肝心の話が届かないのかもしれない.

これは,僕がまだころころとした少年だった時分の話である.体育祭のときに紅色のシャツを着ることになって,僕はなんだかそれが可愛くて嬉しくて体育祭が終わって用具を片付ける間もずっと着たままで運動場を走り回っていた.先生に声を掛けられたのはそんな夕暮れ時のことである.「可愛い女の子がいると思ったら,おまえか」と例のよく伸びる綺麗な声で仰るのである.この上なく美しく枯れた老紳士からそんな風に言われたから,僕ははにかんで,そのまま走っていった.教室に帰ったら仲良くしている男の子に「いつまで着てんねん」と怒られた.だけど,あの時ほどひ弱でどんくさい僕が自分の身体というものを誇らしく思ったことはなかった.先生は僕のことを「狼の群れの中に羊が一匹」とも仰った.判ってくれているのだ,と足りない頭ながらに思った.そんな老成したエロスに僕はずいぶん支えられた.一番と言って良いほど怖い先生でもあった.そして,どんな腕白でも素直に話を聞く気になるような信頼できる先生だった.

男子校でよく見かけられる類の風景ではある.どこまで事実だったかも曖昧である.僕はこういう物語的な文章しかかけないので申し訳ないのだけど,それでも精一杯書くと,上のような話もご存命中にしたかった,もう一人の美しい人について.人形の魂がどこから来てどこへ行くのかはよく判らないが,少なくとも人間は死者の行く道を案内してやるわけにはゆかないので,そういうものに託してみるしかない.「からくりからくさ」のりかさんがお友達の人間を浄土送りするのだとすれば,かの人と会話し愛されたキャラクターたちも浄土送りするものだと,僕は祈ってやみません.

NaturalZero+

この家,騒々しい家でさ.子供が一人住んでるだけなのにね.ばたばたばた.にゃーにゃーにゃー.
つまり,さみしい家でさ.章吾さんがいなかったらと思うと,ぞっとするわけです.
川原泉の漫画によくしゃべる男の子の話があって,それはなぜかっていうと彼の家は母子家庭なので二人きりの食卓に活気をもたらすため彼はそうしているということでした.そんな風に鞠乃さんもやたらよく喋る子供で,章吾に対しても猫に対して喋るときみたいに相手の分まで話す勢いでさ.
騒々しいということは時に埋めがたい不在を意味しています.

騒げや騒げ.天まで届け.