D.C. #8c あたま山

女の子たちの中に味噌っかす一名.みんな怖い話をたくさん知ってるのに自分だけ知らないし,聞いてて怖くてしかたがない.それでもそうやって構ってもらえている間はまだ嬉しいのだけど,最後のおいしいサゲは別の子が持っていってしまうのである.失敗したり足りなかったりするのが自分の役割だったはずなのにそれさえも音夢が持っていってしまう.だからやっぱあたしはまだ一人前の仲間じゃないんだなと思う.たぶん,そういう話.はやく大きくなあれ.

Φなる・だいあろーぐ

Φなるについては,末永が綺麗にまとめてくれている.

http://homepage1.nifty.com/fluorit/douca/diary/diary0010.html#30g
「語るべきことを主人公のモノローグじゃなくて全て対話の中に収めている」

うまいこと言ってくれています.夢のつばさの感想なんだけど,そのままΦなる・あぷろーちにも当てはまる.

手足

僕は僕の手の長さを知らない.それでも目を閉じて自分の足の親指をつまむのは簡単である.しかし,目を閉じて手に持ったペンの頭で足の親指をつつくことはえらく難しい.あらかじめそのペンがおよそ15cmであるということが判っていても,自分の手が15cm伸びた感覚というのは計算できるものではない.だけど,目を閉じたまま何度か試しているとすぐにどこでも上手くつつくことが出来るようになる.このとき僕はペンが自分の身体の一部になったような気分になる.

座頭市(北野武)では再三,人が自分の身体の範囲を知らない様子が描かれる.目を開けていてさえ冒頭の荒くれ者は刀を抜くとき隣の仲間をうっかり切ってしまう.おそらく彼らの普段の間合いは拳骨であるため互いが触れ合うような距離に立つのが自然だったのだろう.念のため書いておくとこれは座頭市と直接斬り合う殺陣のシーンではなく,彼らはただ何気なく自分の手(道具)の届く範囲を測り損ねている.これは扇屋たちの試し切りのシーンも同様である.あるいはバクチ打ちが目を閉じて壷を振ろうとするが誤って自分の足先を壷で叩いてしまう.ほんの少し手先の感覚が変わっただけで人は自分の手の位置,足の位置すらも見失う.

どうやら身体の範囲というのは伸びたり縮んだりよく判らなかったりするものであり,そして手足を動かしている間だけその都度理解されるものであるように思われる.僕は居合術といえば橘右京か高嶺響だというくらいによく知らないが,おそらくはこの伸び縮みを把握する技なのであろう.


座頭市 <北野武監督作品> [DVD]

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昨日,テレビで見た.


手足

手足

「だからあたしの手足よ 今はここにおいで」(さねよしいさ子)
久々に思い出したのだけどソマミチくんの好きそうな歌.

D.C.#5,#6

#5 ある者がやむにやまれぬ事情で別の姿をとって出てくるというのは痛々しいし(例:沢渡真琴),突然ある人が嘘になるのも苦い青春なので(例:出田雪乃,神鳥智奈),頼子が隠しごとなしに見たまんま猫又扱いされてるところが幸せ.

朝倉兄妹は洗濯なんかは普通に出来るけど料理の腕前が良くなくて,二人でそれを憂えている様子が描かれている.出来ることと出来ないことをいちいち採り上げることによって中学生の兄妹が二人暮ししている感じがよく伝わってくる.

#6 海水浴の話.芳乃さくらの水着があまりにも不憫である.あんたそんな水着しか着れないのか.売り言葉に買い言葉で,彼女としても自分の小さな身体のことは冗談にしてしまうしかなかったのであろう.純一にサンオイルを塗ってもらおうがじゃれあいにしかならず,彼が戸惑いを覚えるのは無論,音夢の背中のほうである.きっと羨ましかったろう.

新・部長生徒

京都は着だおれ,なにわ食いだおれというが,大仏商法はかけ声だおれである.六ツ星きらりの舞台である奈良をモデルとした街,星城京は着だおれと食いだおれが両方揃っているというのだが,そうと判ってあえて言ってるのだろう,星の代わりに涙が流れる.

古都奈良に都会というものはそぐわないと前に書いたが,僕が高校生であった1990年代初頭には奈良はこれから都会になるものだと信じていた.それは奈良の寺社群をパビリオンとして見立てる世界建築博が計画されていた頃のことで,駅前や三条通りの整備が始められていた.JR奈良駅の南の広大な土地には三越が入るという噂で,それがまだ見ぬ都会のシンボルだった.その中で古都を代表するものとしてにわかに掘り起こされたのが奈良町の存在であり,1994年の都市景観形成地区指定に前後して道や観光案内の整備が行われ,市民の周知するところとなった.僕はというと歴史の宿題か何かのテーマに奈良の町並みの変遷を選んだことや友達がそこに住んでいたこともあって奈良町に親近感を抱いていた.

あらかじめ断っておくとこの世界建築博は頓挫しており,1998年の開催予定まで三年おきに行われたトリエンナーレだけが夢の跡みたいに記憶に残った.これは,その記憶のお話である.

僕の中学高校の所属クラブは歴史部で,ついでに言うと中学三年から高校二年までの間,部長を務めていた.顧問の先生が不干渉のクラブだったので,今にして思うと子供の手だけでは何をすればいいのだか判らなかった.目標だけは明らかで,年に一度の文化祭.そこで教室一部屋を使ってパネル展示を行うのである.活動内容はまず冬には歴史の教科書に載っているような事柄で自分たちの興味のあるテーマを挙げていって全員で取り組むものを多数決などして決める.多数決になればまだいいほうでそもそもテーマが提案されない.春には図書館へ行ったり本を購入して文献調査を行う.夏になると数年に一度は合宿を行い,現地調査を行う.そして9月の終わりに展示を行う.ここで部長の仕事はといえばテーマを出すことと,雑談モードにいくらか歯止めをかけることと,展示作成の指揮を執ることであった.しかし,展示へ向けてお尻に火が付く夏休み以降を除いて雑談クラブであったという記憶しかない.そこで話していた内容ももうほとんど覚えていない.歴史部という名前に釣り合う活動はしなかったのだけど,そこは僕が入った時からそんな感じで,そういうものだと思っていたし,大人も子供も幸か不幸かそれに文句は言わなかったのである.

それでも楽しかったのはそこに部長が居たからだったと思う.僕らが入部したとき部長は中学三年生で,高三で部活動を止めるまでの三年間,あのクラブは部長のものだった.ややこしいが歴史部には中学歴史部と高校歴史部があり,その年によって活動が別れたりくっついたりする.部長は身体がでかくて顔も大きくて,それだけでもずいぶん徳を備えていたと思う.押しが強くて頼りになると素朴に表現できてしまうような素敵な人だった.僕が中学三年のとき部長は高二で,僕も中学歴史部部長であったがこの年は合同で活動したためおまけのような肩書きだった.瀬戸内海の水軍を調査するため廃線前の下津井鉄道に乗ったり大三島へ渡ったりした.僕にとって部長が居るクラブの思い出はここまでで,そこから先は自分が部長であった.

高校一年二年の間はテーマを出す人間がほかに居ないもんだから僕の趣味がまるまるテーマになってしまった.これが非常に間違っていて,もともとミーハーで幅広すぎるテーマを扱う伝統があったものだから(邪馬台国とか川中島とか水軍とか)そのころ好きだった日本古代史を選んだ.おそらくは宇宙皇子の影響であるが,それにしても広すぎる.正直,何を展示したか忘れた.高二のときは滅亡史である.輪をかけて広いがこれも単にコンスタンチノープルの陥落を含む何かをやりたかっただけであったと思う.あとはとにかく絵を描いた.ポスターに大きな絵を描くのが楽しくて仕方なく,歴史の展示というよりは観光ガイドのようであった.しかし,これが展示の大賞を取った.勝てば官軍である,なんて当時は思っていたが,今にしてみれば内容にしても本を引き写してまとめただけのもので恥じ入るばかりである.このごろ京都の旧跡を訪ねて回るようになってからようやく思うが,せっかく京都の学校へ通っていたのに足で町の人の話を集めるようなこともせず本の中の遠い世界だけ見ていたのはもったいなかった.学校の部活動で調べてるんですと言えば菊の御紋で,京都の町の人には何かと便宜をはかってもらえたはずである.

ただ,高二の時に僕は二つテーマを用意しており,実際に熱が入っていたのは選ばれなかったほうのやつであった.それが奈良町の調査で,ルーズリーフ4ページの当時としてはおそろしく力の入った,そしてカラフルな企画書を用意して見せたのだけど,京都の人にとって奈良は僕ほどに縁が感じられなかったのか,その後ろにあった数行ほどの企画のほうが選ばれてしまったわけである.僕が奈良町の話をしたがる理由の一つにはその時の無念がある.

部長としては貫禄もなく歴史に造詣が深かったわけでもなく,下級生の子たちに申し訳ないことをしたと思う.それが今でも素敵な部長像への憧れになっていて,僕は涼宮ハルヒや天河輝夜の中にそれぞれ理想を見るのである.

「天河輝夜.部長よ.なので,全員,私の言うことには従うように.あとは……」
「面白おかしく毎日を過ごすように心がけなさい」

”六ツ星きらり”より

それは,百億の昼と千億の夜を部室で過ごす,臆面もない天文部讃歌だった.宴会好きで,気前が良くて,きまぐれで,なぜだかずっと高校三年生をやっていて,ずっと歳をとらないのだけどそんなこと誰も気にしてなくて,町の人みんなに愛されている神様みたいな人が,ずっと部長をやっている天文部で,「飲めや歌えや,食べろや恋せや.」(智樹),そういう話.

ありえない過去を追いかける僕にも一つだけ,救われたように思うことがある.高校を卒業して何年か経ってから僕のところに家庭教師の依頼が来た.彼は僕が中学三年の時に入部してきた新入部員で,僕が高校歴史部部長になってから中学と高校は合同していないため,ただの一年だけ一緒だった.あまり話もしなかった.それでもなんだか僕のことを覚えていてくれたらしく,物理と化学を教えてほしいと言うのだった.彼は奈良町に住んでいて,それから一年,僕は彼の住む奈良町に通った.生まれついての弟気質である僕が兄のような気持ちを持ったのはこれが初めてで,人に頼りにされるのが心強いことであるのを知った.


これまでのお話.ずいぶん書いたね.
六ツ星きらり
部長生徒
未来世紀ならまち
六ツ星きらり,発売
星空マークシート
星は,すばる
うつくしきもの
 (六ツ星のライターも女の子に古文を読ませるのが好きらしく,天河輝夜もまたある作品の一節を朗読する.)

六ツ星きらり

六ツ星きらり

ダ・カーポのない音楽会

D.C.は子供たちの真剣さがすごい大きな身振りになって現れるところが好きだ.言葉よりもどう振舞うかというところに命がけで,子供みたいにはしゃぎ回ってみたり,好きなドラマの真似をして倒れてみたり.ふと僕の好きな人たち同士を並べてみたくなったのだけど,芳乃さくらの実在感のあやふやさを別の形で描いてみると,ムービック版アニメ「みずいろ」の日和,雪希,健二の三人になるのかなと思う.御影氏の描くさくら,音夢,純一の三人は彼らと比べてとてもやんちゃで,それは健二たちが高校生で純一たちが中学生であるっていうその差なのかもしれない.例えばダ・カーポトリオは接触性だけど,みずいろトリオの場合は触るというよりもエスコートすると呼ぶほうが適切であるように思える.中学生と高校生とでは身振りの大きさが違っていて,男女の話となると僕は知らないけど,姉が高校に入ってからクラスメートに「くん」「さん」付けしなくちゃならなくなったのを勘弁してほしいと言っていた.そういう呼びかけ方に引きずられるように中学の頃よりも物腰がまめやかになるのではないだろうか.彼らが生きている中学三年から高校にかけての時期というのはバネが伸びきっていて,ちょうどそこから手を伸ばしたくらいの高みに,今までとはまた別のやり方の真剣さが待ってるんじゃないかと.

彼らの高校時代を見てみたいと以前から思ってます.彼らの今の真剣さが僕にそれを期待させるので.

D.C.アニメ版

D.C.アニメ版は僕もたまたま第4話まで見直していました.(薫さんが言及しておられたので.)放映時もここまでしか見てません.次の話から頼子が出てくるとか言われると何だかいたたまれない気持ちになるので.

PC版で芳乃さくらの家がお隣のくせになかなか登場しないことはちょっとしたホラーでした.
http://homepage1.nifty.com/fluorit/diary/diary0207.html#1
彼女は突然かつありえない姿で帰ってきて,純一の部屋を訪れるにも人間らしい方法をとらないというように,その存在はしばらくの間,実在を感じさせないものとして描かれています.
アニメ版では一人の人物を追い続けるというよりは全ての人物を一通り描く構成であるためか,尺の長い伏線は忘れないよう早めに回収しているように見えました.第一話でさくらがさくら本人であるのをしつこく確認することや,ことりの能力のあからさまな描かれ方もそうでした.前半で溜めて後半で解放する助平ごころがないので淡白ですが,PC版の溜めが細か過ぎることを思うと読みやすいつくりであるとも思います.

薄紅天女

東京大学本郷キャンパスの間を抜ける言問(こととい)通の名は,伊勢物語第九段東下りにおける在原業平の歌に由来する.

「名にしおはば いざ言問はん都鳥 我が思ふ人は ありやなしやと」

都落ちした業平が隅田川を渡る際に,船頭に都鳥という鳥の名の聞いて望郷の念にかられたというお話である.言問通とはその隅田川にかかる言問橋に端を発しており,こういうお話があってようやく僕の東京での暮らしと関西での暮らしが繋がるように思える.伊勢物語については伊吹みなもをはじめとして最近いくつか縁があり,先日Eさんとご一緒した際には荒山徹の「魔風海峡―死闘!真田忍法団対高麗七忍衆」という小説を紹介して頂いた.なんでも伊勢忍法というのが凄いらしい.

僕「なんか名前だけでありえない香りがしますね」
Eさん「いや,しかもこれがお伊勢さんのほうじゃなくて伊勢物語の伊勢やねん」

(以下ネタをばらしています.)

Eさん「伊勢忍法『都鳥』というのがあって,地中に潜って相手の足の裏に都鳥の歌をさらさら書くと,そいつは都の方角へしか向かえなくなって,舞台は朝鮮だから釜山へ行きたくても漢城へ向かってしか歩けなくなるねん」
僕「言葉の違う国で通用するのが凄いですね!」
Eさん「そうやねん.多分フランスで使ったら相手はパリのほうへしか歩けなくなる」

とかなんとか.

業平寺こと奈良の不退寺は僕が子供のころ通っていた塾のあたりにある.しかし,国道24号沿いに遠巻きに見たことがあるだけで行ったことはない.最近縁付いていることであるし不退寺について少し調べてみると,業平がお寺として改めるまでは彼の祖父である平城天皇の退位後の御殿であったという.平城天皇は即位前に安殿皇子という名前で,とこれはどこかで聞いた話でありもしやと思って確認したら,荻原規子の「薄紅天女」がその話で合っていた.連想は面白いように転がる.

数年ぶりに「薄紅天女」を読み直した.少年の身体に女性の力が宿ってしまう混乱であるとか,とりかえばやもかくやの男女の衣装交換であるとか,昔読んだときにはそういう男の子とか女の子とかいうくだりばかり気に入っていたが,今では熱病が去ったかのように全く違う印象を受ける.
兄妹,姉弟,あるいは叔父甥であるが兄弟のような関係がいちいち良い.例えば苑上内親王は乳母や弟にはえらそうな口のききようであるが,大好きな兄(安殿皇子)に対しては丁寧な言葉遣いへと変わる.弟には女神であるがごとく,兄には淑女であるがごとくだ.こういう都合の良さが可愛らしい.

薄紅天女の元となった更科日記の竹芝伝説によると,武蔵の国に憧れた天皇の姫君が竹芝の男とともに東下りする.竹芝とは隅田川に程近い地と思われ,同じ場所ではないはずであるがゆりかもめの竹芝駅や竹芝桟橋にその名残りがある.業平と苑上の東下りがそれぞれ実際にあったことであると想像してみると楽しい.都鳥の武蔵はうら寂しい一方,薄紅天女の武蔵には幸いがある.業平もまさか自分の祖父の妹君が自分と同じ旅路を行き,そこで幸せに暮らしていたなどとは思いもよらなかったであろう.

薄紅天女

薄紅天女