リコレクション

2007年頃のこと、記憶障害をICレコーダーや紙のメモを使ってどうにかサポートしている部分について、未来のエンジニアリングへ期待が寄せられていると聞いた。忘れないようなるべくメモをとるが、自分が話したことや無意識のことはメモから漏れがちであるし、そもそもメモを残さなければならないということすら忘れてしまう症状もある。そうした根本的なことは一定時間ごとに「メモを残すんだよ」などと音声を自動再生させて思い出せるようにしてあげる、というのも有効であるが、自動的に音声や映像の記録がとられて、必要なときに必要な記録が検索され、注意を促してくれるものがもしあればいっそう良いということだった。もちろん実現は難しい。そういうものをそういう風につくるとしたらだけど、記録されたものの意味するところがなんなのかまずは自動的に判らない。意味が判らないと検索できない。それで必要なときってどんなとき? 必要な、という文脈も自動的には判らない。なんでもかんでもは判らない。ただ、あらかじめ判ってることは判る。判っていることから手はつけられてゆくだろう。

記憶障害ではないとしても、過去を知らなくてその過去が必要な人に過去の記録を再現してあげる、ということは価値があると思う。必要なときに必要な記録の、それ、を再現してやる。どれも判ってることであればあとは手や足を動かせばいい。たとえば2006年に万世橋の交通博物館が閉館、解体される前に数万枚のパノラマ写真が記録された。その7年後に僕が交通博物館に興味をもって、過去の様子を知りたがった。そんなときにちょうど、交通博物館跡にかつての様子をAR再現するイベントが実施された。

http://ejrcfblog.com/2013/08/17.html

ここではかつて撮られた360度のパノラマ写真が、タブレット越しの現在の風景に重畳表示される。僕が元の撮影位置と同じ場所に立って、同じ角度に合わせて、そうすると再現システムが動作開始する。僕が立って意味のある位置や向きは限定されるのだけど、それでもなお過去に行けない僕にとってこれ以上うれしいことはなかった。解体前の交通博物館の定点パノラマがあって、見たいものがあるときに、見たいものを、僕は見た。

プリズム◇リコレクション!において、妹であるこのかの記憶障害をサポートするのはそうしたARの一種で、実験の段階では特定の位置に立つと過去のその場所での体験が記録された映像が再現される。位置の発見ははじめ偶然だったが、二度目以降は意図してその場所に立てば何度でも再現することができた。2040年代の技術として位置の同定が今よりも高い精度になってることは冒頭から描かれているのを踏まえつつ、話は2040年から見た未来技術へと展開してゆく。それは上に書いた未来のエンジニアリングに近づく内容である。

観光案内を目的とする☆☆☆部において、カメラマニアの連城紗耶香は写真記録とともに街をつくりあげてゆく。記録と記憶は同じではないだろうが、このかの場合、タイトルが連想させるよう光学的に記録されたことの集まりが記憶らしきものを形作っている。

その記憶らしきものは記録であるがゆえに、自分にとどまらず他の人の目にも触れうる状態で残されてしまう。初咲雛乃がこのかに見られてしまった自分の恥ずかしい過去をデータから必死に消そうとしたように、これに伴う問題はしかし、一般には最も隠したほうがよいだろうインセストの事実が部員をはじめとする関係者全員に認められるに至ってはなるほどちいさなことに思えてしまうな。

プリズム◇リコレクション!  初回限定版

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折り目正しいひとの多いところが好みです。

温泉でも行こうなんていつも話してるトゥナイト

関東いる間に東照宮へと思ってるうち何年も経って、ようやく家族で行ってきたけど、日光が思い出になるとともに日光へ行きたいと言ってた長い間のことも思い出となってしまった。

どこそこ行こうってはなかい口約束重ねることも、それはそれでかすがいやねぇ。

夏姫さんと早生さん、ふたりで京都へ旅行しよ、って何度も言ってるけど最後まで実行しないあたりに好感です。

落語を暗唱するうちに処しようのない気持ちが整理されてゆくのも。

Berry's 初回版

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エレガントっていうのはそういう端々に。

好き?好き?大好き?

Do You Love Me? を、ごはんおいしい? って訳すよ。

味覚は真理ですか。否です。というか、おいしい、には個別の理由があるって柏木千鶴さんが教えてくれました(お約束劇場3 続・柏木家の食卓。)あの千鶴さんが料理だけ下手なわきゃないよね? 本来すごいおいしい料理であるのに反転した味わいをもたらしているわけは、本編の伝奇的要素へと正確に求められるのであった。

最近だとシャルル・マロースさん。あの素敵な人が味見してないわけなくて、それで実際、本人が本気でおいしいと思ってるわけだから、しょうがない。

おいしいは罪深い。

自分で味見して不味いとおもった料理を、おいしいって言ってくれるひとがいたとき、そのひとからの I Love You はどう聞こえますか。ごはんおいしくない話はこんな風にもこじれるのね。

「私が、嫌いだから……えぐっ……嫌いだから、好きって言うんだ……ああうう……」

真においしいと思っているかを実験みたいに確認することになるわけだけど、そういや、自分のこと相手がホントに好きかを知るために友達経由で訊き出そうとするのもそうよね。

好きであることの確認は、ごはんがおいしいという確信によって達成される。

Berry's 初回版

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エレガントです。いろいろと。

恋色マリアージュ

とある先生から似顔絵の極意を教わったことがありまして、それは手元を見ずに相手の顔だけ見て描くということ。絵の達者じゃない人というのは自分の描く線のゆるさとか配置のずれとかを目で見てしまってそこでいちいちつまずくので、そんなんよりはもう手元は見ないで描く方がなるほど、相手の顔の感じも描き手のニュアンスもよく捉えた絵が生まれます。絵というのはそういうふうに楽しい。

思いのこもってる絵がいい、と言われる場合、それは必ずしも君にテレパシーが届く、直感としか言えそうもない様子を指すんじゃなくて、他のことに一心なので取り繕うのに注意を払わないから、絵の良いところが失われにくいというのもあると思う。

さて、恋色マリアージュのルリアスティスさんは有名な画家で、直さんは旅館運営一筋で手先が器用とはいえ絵なんて授業くらいでしか描いた風でない。そういう直さんがなんとなく描いた肖像がルリアスティスさんに響くというのは、この人が相手のことしか見てなかったからではないかと、読みました。

【直】「ルリア……ちょっと借りるぞ」

手の付けられていないスケッチブックをひとつ手に取ると、絵を描き始める。

慣れないスケッチに悪戦苦闘しながら、ルリアの姿を自分なりに描いていく。

目の前で寝息を立てているルリア。

初めて出会ったときのルリア。

再会したときのルリア。

そして、僕に勇気を出して告白してくれたルリア。

それら全てと対話するように、僕はひたすら絵を描き続けていた。

とくに脈絡なく肖像は描き始められます。ずっと巻き戻せば彼女がスケッチブックに描く直さんの肖像を見てきたのだけど、この看病の夜、彼女のことを考えているとそれは不意に思い立たれる。ここで、自分なりに描く、という一言は難しい。普段描いてない人に自分の絵のタッチというのはないから、判らないけどなんかやってみるというくらいの意味で、それからこの人、ルリアスティスさんのことしか考えてない。そういう絵。よそおうところがないから、人に見せるのも物怖じしない。

【ルリアスティス】「ぜひ、描いた絵を見てみたいです。お兄様がよろしければ、ですけど」

【直】「ああ、いいよ」

少し照れくさいけど、スケッチブックを手渡す。

【ルリアスティス】「素晴らしい絵だと思います」

【直】「それは褒めすぎだろ」

【ルリアスティス】「そんな事ありません。改めて、絵について考えさせられました」

【ルリアスティス】「上手く描く必要なんてまったくなくて、自分がその絵にどんな思いを込めるのかが大事なんだって」

上手く描く必要がない、とはよく言われる言葉なんだけど、そんなこと言われてもなぁ、どう描けばいいかわかんないよ、というのがよくある反応で。どう描くかについてもその先生からいくつか教えて頂いていて、具体的にここに全部は挙げないけど、上手く描けない道具立てをわざと使う、というのはおおざっぱに言えることです。直さんの、なんとなく描き始めて、ルリアスティスさんのことしか考えてない状態というのは、それはたまたま上手く描けることに気持ちが向いてないので、そんな風に素敵なんだ。

【直】「それと、この絵を描いてるとき、ルリアが言った言葉を何度も思い出してた」

【ルリアスティス】「私の……言葉?」

【直】「自分が好きなものなら、どれだけでも描ける」

【直】「僕も描いているとき、いくらでも描けるような、そんな強い衝動を胸の中に感じたんだ」

そんなこと言われてもなぁ、その2.であるかも知れず。自分のなかにある気持ちが自然と表現されるような言い方は絵心の有る無しとして受け取られちゃいそうで。言葉を補うなら、絵のことを忘れていられるくらい好きなものは、どれだけでも描ける、ということではないかなぁ。中島敦の名人伝じゃないけど、

「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」

その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。

というとこへ至ったように思える瞬間というのは、好き、というとき普通にありそう。そんな思い入れできるような好きこそ、難しそうで、滅多に生まれないことに思えて、そんなこと言われてもなぁ、どう好きになればいいかわかんないよ、かもだけどね。

あと面白かったのはこういうとこ。幼いころのこと。

【直】「僕も、代わりに何かあげたいけど……何も持ってないや」

【ルリアスティス】「いいよ。私がお礼したかっただけなんだもん」

【直】「そうだ。機会があったら、今度女将さんから教わった礼儀作法を教えてあげるよ」

子供が、である。この人ほかにないねん。直さんのもてなしの心あふれる歓待が沁みる逗留でした。また来ますわー。

恋色マリアージュ

恋色マリアージュ

洋風と和風の接続された旅館のモデルは東京の旧岩崎邸かなと思ったけど、写真を探したら三重の旧諸戸邸でした。どちらもジョサイア・コンドルという建築家の設計によるもので、なるほど雰囲気が似るものだね。

ラブラブル

美冬さん愛してます。

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120109

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120320

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120322

ラブラブル~Lover Able~

ラブラブル~Lover Able~

美冬さんあまり出てこないだろうと思いつつも、同棲ラブラブルは来年の楽しみにして。

ではでは、良いお年を。

ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。

独立した機能ブロックが空間上で相互作用する、というのは、知的な感じがする、あるいは集まって動作する様子が社会みたいな感じで面白いものだから計算機の世界ではずっと好まれてきたアイデアです。BTRONもIntelligentPadもOpenDocも、Windowsも伺かも、と挙げてゆくとこれきりがないのだけど、そういうところがあります。いまではiOSやAndroidのように1スクリーン1アプリが広まりつつあるなか、古くから愛されてきた複雑そうに見える計算機プログラムの、円熟したかたちだと思いました。電子さんがものすごい可愛い。

ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。

ノベルゲームの枠組みを変えるノベルゲーム。

七つのふしぎの終わるとき、すぴぱら

年上の女性と渡り合うときの会話に誠実さがにじみ出てるんじゃないかな。竹田さんは部分部分触れてる感じで完全にこれ、というのはまだなので、来年には収穫の十二月をやらねばと思いつつ。

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120325

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120331

七つのふしぎの終わるとき 初回限定版

七つのふしぎの終わるとき 初回限定版

すぴぱら STORY #01 - Spring Has Come!

すぴぱら STORY #01 – Spring Has Come!

桜ノーリプライ、妹スマイル、妹スタイル

鯉川こいも好きなんだけど、今年やった分についてはなんか海原楓太ばかりだな、という気持ちになりました。というのは、妹スタイルの夏希だけまだ残していた分やったのと、桜ノーリプライの月森千代子はたぶん海原楓太担当なので。イモウトノカタチほどなにも手がかりがないところからは始まらないんだけど、兄妹になるとか恋人になるとか、どういうかたちにせよ、ふたりで新しく生きてゆこうとするときの無理さ加減を吹き飛ばすギャグに満たされた日々。

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120624

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120514

桜ノーリプライ

桜ノーリプライ

妹スタイル

妹スタイル

妹スマイル

妹スマイル

イモウトノカタチ

血の繋がった兄妹であるかどうか記憶も記録も失われた人間が集まったとき、そこへ血の繋がった兄妹では絶対にありえないロボットの女の子がお兄ちゃんなどと言い出すことによって兄妹という言葉は空高く蹴り上げられる。どこへ飛んでってしまったか判らない妹とお兄ちゃんとのあり方をめぐる宝探しみたいなお話。本年の白眉です。

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120915

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120916

http://d.hatena.ne.jp/tsutsu-ji/20120917

イモウトノカタチ

イモウトノカタチ