School Rumble (1)-(6)

大学一回生の秋にとある委員会の合宿があって,たいして知り合いが居るわけでもないのに友達が増えればいいと思って参加した.移動の電車のなかで数人の男と一緒に話すようになって,その中心にいた人いわく,なんで俺の周りにはいつも男ばっか集まるかなー,ということであった.そういう人はどこにでもいて,こう見知らぬ人ばかりの場所に参加するときには有り難いものである.しかし,そういう人に頼ってばかりいるといつまでたっても人見知りが直らない.人とたくさん会うようになった今になってもまだ直っていないので辛いと思う.それはそうと,合宿の夜,僕は一人あぶれた感じで和室の奥の板間から外を眺めていた.さっきの彼はどこかへ行ってしまっていた.僕は手に350mlの缶ビールを持っていて,生まれてはじめてそれを飲み干した.何もかもがはじめての頃だったからそういうのも一度やってみたいと思っていた.そんな風にたそがれていたとき,事件は起こったようだった.女の子が泣いたとか,追いかけたとか探しに行ったとかいう話が,畳の間のほうから漏れ聞こえてきた.ガラス戸の外,夜の公園では惚れた腫れたが進行していたようで,ああさすがに大学に来ればそういうドラマみたいな話はあるもんだな,と思った.そういう話を耳にするのもはじめての体験だった.当事者は僕と同じクラスの男と僕と同じ分科会の女で,どちらも僕が声を掛けることのできる数少ない相手だったが,僕は二人が好き嫌いというような関係にあるなんてことは全然知らなかった.自分が委員会にまだ入り込めてないことは判っていたが,それは少なからずショックであった.そのうち帰ってきた例の電車の彼からそんな事情を聞いたのだった.合宿はどこへ行って何をやったのか全く覚えていない.そんな風に記憶の曖昧な旅行は他にないのでこのときのことは何か夢のようにも思えるが,そういう夜があったことだけは鮮烈に覚えている.

スクランのみんなは,プール遊び,海水浴,キャンプに運動会と沢山のイベントに囲まれて過ごしている.恋愛を語るにあたって高野晶が心理学で言われるところの吊り橋効果の話を持ち出したが,天満や愛理はまさに吊り橋を渡っている最中なのでそんな風に外からの想像が及ばない渦中にいる.以前,日本一長い谷瀬の吊り橋へ行ったとき,順番待ちをしている間は怖くてへっぴりごしで渡る人たちを見て家族みんなで笑ってた.しかしいざ自分たちの番となると谷底の上で何も考えられなくなって,前の人のシャツを掴んできっと周りから見ると笑えるような格好をして渡っていた,これを谷瀬の吊り橋効果と呼ぶ.洒落はともかく,さて,格言であるとか○○は××するものであるといった観点はその事情の真っ只中に居る人にとって認識したり利用したりできる類のものではない.晶の口から吊り橋効果の話がすっと出てくるのは,彼女が吊り橋の手前か先に立ってものを見ているからだろう.晶は同じ気持ちではないと思うが,あの夜の僕は吊り橋の手前に立って,そして少々いじけていたのだと思う.

吊り橋効果と関係があるかどうかはよく判らないが,読者である僕もあの騎馬戦の様子にどきどきしていて,その調子で2年C組の人たちには男女構わず惚れてしまいそうであった.播磨の帽子を守った愛理とその借りを返すためにアンカーを務めた播磨は「今日だけは特別」にフォークダンスを踊るのであり,このとき彼らは吊り橋のようなものを一つ渡り切ったように見える.そして彼らの前にはまた次の吊り橋が待っているのだ.そこに,歩いてはいられない日々がある.みんな体動かすのが好きそうだ.あのおとなしそうな八雲だって見ればよく走ってる.前を向いて走ってゆく限り,その先に必ず吊り橋は続いていて,名高き谷瀬の吊り橋もかくや,松島,天草を八艘飛びに橋は架かり,かれら海の向こうまで渡ってゆく.格言みたいな物言いをすると吊り橋の恋は熱しやすく冷めやすい.しかし,吊り橋を渡り続けたならどうなるのだろう.それはきっとラブコメというやつである.そしてラブコメにアクションは欠かせない.彼らのアクションを見ることによって僕はどきどきしやすくなっているように思える.ここでラブコメだとかそういう突き放した言い方は彼らに対して失礼であるが,ときどき自分が吊り橋の手前か先に居るような気がして,そんなときぽろっとそう思ってしまう.僕は彼らの暴れっぷりに巻き込まれ一緒にどきどきしていたはずなのに,自分にがっかりしてしまう.

谷瀬の吊り橋を渡ったあの時,高くて細くて長くてほんとうに心臓が壊れるかと思った.これを地元の人は平気でスクーターに乗ったまま渡れるそうである.
渡れるようになるそうである.


School Rumble(3) (講談社コミックス)

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谷瀬の吊り橋

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