かえで通りにて

「かえで通り – brandnew days innocent -」(inspire)は学校を卒業した人たちの話であるから今の自分と近しく感じられる.一方で彼らは二十歳そこそこであって,それは僕にとって十年前の出来事であるようにも思える.だからクレジットで2000年と表示されたとき,1990年代のゲームでないことが奇妙に感じられた.つまるところ僕は彼らから十年遅れて同じ場所に立っていて,これは2004年の僕の出来事であり,1994年の彼らの出来事である.

世話を焼くということをこれまでやってこなかったものだから,世話を焼きたい相手が生まれたときにどうすればいいのか判らない.相手の邪魔をしてるように感じたり,自分を頼りなく感じたり,そもそも世話を焼く相手を間違えたりしている.

2003年初頭の僕は「かえで通り」について次のように述べている.

世話を焼く,というとても意図的な関係のとり方が,そこでは当たり前のように積み重ねられてゆく.睦月がひろゆきさんを佳澄のお婿に迎えることがその極端のもので,それでようやく days innocent からこのかた睦月がゆりかと体を重ねるのも睦月なりの世話の焼き方だったのだと判った.これまでそれをうまく言葉に出来なかったのだけど.

あの場所が水や空気のようにあるのではなく意図によって維持されていることを,私はたくましく思う.それは睦月の意図だけではなく,世話を焼かれるほうの意図も必要とする.世話を焼く人を前にしたとき,焼かれる人は自分が何を求めるかというアピールを行ってようやく対話が成り立つ.もしかみ合わないとしたら田舎からは大量の余計なお世話が送られてくる.お米券とか.しかし,自分が相手から欲しいものを探して伝えるのはたいてい難しいことのように思われる.かえで通りの彼女らに余計なお世話が存在しないのは,世話をする人,それは主に睦月であるが,皆はその世話に対して自分が求めるものが何かを応えることが出来るからに他ならない.

現在,佳澄の話のみ.それはちょっと前のことになるのだけど,今日言葉になったので.

(R.S.T. 2003/1/25)

昔の自分は今の他人であるから褒めることにするが,さすが慧眼であると言える.今日,あかりの話を読み終えてみると上の言葉がそのまま当てはまっていた.あともう一つ思うのは,人は余計なお世話をするだけでなく,勝手に世話を焼かれることもあるということである.僕は今まで積極的に世話を焼きたいだなんて思ったことはなくてただあるがままにやっていたのだけど,それでも少ながらずお世話になったと伝えてくださった人が居た.だからなんだかいざ自分からそうしようとすると,何をどうすればいいのだか判らないでいる.

そんな感じでふわふわとしているこの頃だけど,話してるとき,この大学,この研究室に来て良かったと思うようになったと言ってくれた人がいて嬉しかった.僕のおかげかどうかは判らないのだけど,僕にそう言ってくれたことが嬉しかった.

例えば,鳴瀞学院のような場所って理想じゃないですか.だけど,工学部というのは言葉に長けた職人を育てる場所であって,半分職人であるから口動かすな手を動かせと言い,残りの半分では手ばかり使うな言葉にしろと言う,矛盾に満ちながらもそのサイクルをぶん回すことで前進してゆく.そんな荒っぽい中ではじっくり道を決めるのは難しい.かといって一度回転を止めると手も頭も動かせなくなってしまう.その両極端に揺れるさまをなだめすかしつつ,なんとか卒業してくれて.その中でもしも工学のことを好きになってくれていたとしたら幸運と思うわけで.

来年の3月にはみんな笑ってられるようにしていたいと思うわけで.


かえで通り – brandnew days innocent – (inspire)
メーカーサイトはすでにないため,げっちゅ屋のページへ.

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