ちぃ,覚えた

小学生の頃はまだ僕も物事を覚えるのに丸暗記はしなくて,何かの判りやすい縁と結びつけていたようである.中学高校ではこれが教科書のページを写真のように頭に焼き付ける方法へと変わってしまった.昔は神経質で,全部覚えてないと心配でならなかった.ここで言う丸暗記というのはキーワードだけでなくその前後の文章もあわせて丸々覚えるものであり,つまり文脈ごと記憶しているためそう悪いものではない.ようするに教科書持ち込みありで試験を受けていたのと同じであった.しかし長い間覚えていられないという点で記憶術としては劣っており,ずいぶんどんくさいやり方をしていたものである.
当時の反動で今は出来るだけものを覚えないようにしている.その代わり何かお話らしきものを見つけた時はそれを文章に書き留めることによって思い出しやすいようにしている.このほうが気が楽でよい.
自分の書いた文章は音として何度も読み返している.音にしないとどうも頭とうまく繋がらない.頭というのは「しかぞなくなる」を「鹿ぞ無くなる」と思い違えるようなそのぼけ頭である.鹿がいなくなるなんてなんだか寂しい話と思ったものだ.誤っていようがどうにもそういう音の連想をたくさん抱えていないと一歩も動くことが出来ないのである.次の一歩をどうしようか考えていると薄ら寒くて,音から沸き立つ何かを掴まえないと前に進むことが出来ない.だから,うまく音になるような言葉を心に刻み込まなきゃいけない.音は文字にしながらまとめるとうまく働くのに口をついて出てくる言葉はどうしてひどい音なのだろう.関西人が1から10まで数えるとき必ず歌にするように,そんな風に僕らの話す言葉がみな韻を踏んでいたらいいのに.
「ちぃ,覚えた」と言うとき,ちぃはいったい何を覚えたというのだろう.彼女は音を覚えるだろうか.それとも何かスマートに切り分けられた知識というものがあって,彼女はそれを覚えるのだろうか.

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