D.C. #24

友達の顔をじっと眺めるていると知らない人の顔に見えてくる.お肌は思ったよりも凸凹だったり,色も肌色なんて色ではなく部分ごとにそれぞれ違う色をしている.思ったよりも鼻の穴が大きかったりする.僕は普段,友達の顔面の細かい情報を覚えてないが,いつもの道で友達と出会うときは一目で彼だと判断することが出来る.
いつもその人と会う場所で出会う分にはいいが,会うはずのない場所で知人のような気がする人を見かけた時は声を掛けるのをためらってしまう.新幹線の中などがそうで,ご縁のある先生に似た人が近くの席に座ってるのに気付いたけれど自信が持てないということがあった.もしご本人だったら声を掛けないと失礼であるが,ちゃんと確認するには相手と目線を合わせることになって,もし知らない人だったらこれも失礼になるしで随分困った.人の顔をうまく一致させられるかどうかということは,顔の細かな造形よりも出会う状況に大きく左右されていると思われる.そんな風に,僕の記憶がエラーを起こしているというよりむしろ僕を取り巻く環境のほうがエラーしているのだと感じられることがある.
先日,外部記憶を専門とされている先生と記憶の想起に関する実験について議論させて頂く機会があった.乱暴ではあるが実験を要約してしまうと,カレンダー形式とリスト形式のスケジュール帳を用意し,被験者がスケジュールを記入する際と思い出す際とで形式とを変えてやるとスケジュールの内容を上手く思い出せなかったというものである.実験を踏まえた先生の仮説によると,人は外部に記憶を残すとき,記憶を全て外に書き出してしまうのではなくその外部とどんな風にやり取りを行ったかということを記憶しており,この外と内の記憶が揃わないと外部記憶から元の記憶を想起するのは難しいということである.つまり,記憶したときのやり方をそのまま用いることが出来ない状況で思い出す必要が生じたとき,元通りの記憶を取り戻すことは難しい.僕は記憶を空間へ結びつけることに拘っていたが,空間へ向けたものだけでないもっと幅広い相互作用が想起の手がかりになっているというのは,確かに身に覚えがあった.例えば,僕がある先輩と再会したときに先輩と過ごした昔を取り戻すことが出来たのは,僕が先輩に対する接し方を覚えていたためであった.
さて,ロボットの美春は本人(人間の美春)が持っている思い出を持たないのだという.ロボットの美春はより本人らしくあるために本人の思い出を探し求めるのであるが,はたから見ていると彼女は充分に本人らしく振舞うことが出来ている.ここで同じ思い出を持たない者が同じように振舞うというのは素朴に考えると難しそうである.しかも彼女は本人が大好きである音夢のことをにゃむとしか呼べない程度には記憶の細かいところが怪しい.それでも彼女は本人がバナナに対してどう行動するのかを知っていたため,バナナを食べにゆき,バナナが好物であるという思い出を取り戻すことが出来ている.彼女は思い出を持たないで生まれたがどういうわけだかやり方だけは心得ており,彼女が音夢に抱きつくこともバナナを食べることと同じであるように見える.彼女は本人と同じ環境で暮らす中,過去のやり方を用いた現在のものとして思い出を獲得し,それは本人が思い出すものと日付は異なるし細かい内容も一致はしないだろうが,周囲が不審に思わない程度には似た思い出となっているのではないだろうか.そうすると,本人の思い出を自分の記憶回路の中に探し求める美春の行動が空回りして見えるのは,思い出というものが何かひとかたまりの情報として残されるのではなく,そもそも人間の美春だってあまりはっきりしたものは持ってないということを,ロボットの美春自身が証明してしまっているところにある.
永い眠りにつく間際,彼女がついに過去の思い出として認めた出来事は,純一と密度の濃い時間を過ごすことによってもたらされた.彼女は純一とそうした時間を過ごすやり方を知っていて,だからこそ思い出すことが出来たのだろう.それが唯一彼女が認めた思い出であり,バナナや音夢のことがそうでないわけは,ただ彼女の純一に対する恋心ゆえだっただろう.
恋って何かは知らないけれど,仮に恋愛において遠い過去や前世的な思い出が価値を持つとして,彼女のそうした差別化をあえて名付けるとすれば.

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