Water in the AIR (2)

〜7/20,佳乃登場まで.

・アイス食べたい往人さん.お向かいの牛乳を飲んでしまって観鈴にケツを叩かれる往人さん.一見,お母さんと腕白小僧であるが,古河家のことを思い出すにむしろ若奥様と馬鹿旦那のようである.「お料理はもうちょっとだと思うけどね.新しいお料理の本とか欲しい.」「そうすれば往人さんにもっと,おいしいもの食べさせてあげられる」なんてね,まるで新婚さんの台詞じゃないか.

・”結局,ずっとテレビをふたりで見ていた.あいつにとっては,それが変わらない日常なのだろう.” いや,まさか.観鈴がふたりでテレビを見るなんてこれまでほとんどなかったことは容易に想像されるはずで,そんな日常はなかった.ときどき彼ら,麻枝准の男の子たちは相手と自分との日々を既にあったものとして回想することによって,相手の女の子と自分とを繋ぎ留めようとする.CLANNADの場合,「ふたりだけは,出会いの日の中にあった.」という朋也のナレーションがある.出会いの日というものは普通,関係が続いた後に回顧されるものであるが,朋也は彼女と出会った日の現在形で語られる出来事のうちに,不意に未来の日々を走り抜け,過去形としてふたりの出会いを語る.彼らはどうみてもまだふたりじゃない.だけど,ひとりひとりの存在でしかなかったはずのものをふたりとして繋ぎ留めるために,往人は観鈴との日常を,朋也は古河との日々を創り出す.彼女らの知るところでないそれは,ひどく一方的で不器用なモノローグだ.仮に口に出していたとしても,彼女らの場合,誰と誰がふたりやねん,という突っ込みどころには気付かないだろうけど,それでもなお声に変えることがためらわれるような守りたい心のかたちである.
・ここらで「ふたり」という言葉は何気ないふりをして不意打ちで用いられる.

ちゃぶ台を挟んで,プリントの問題に向かい合う.
往人「あー,なんだこりゃ」
観鈴「なんだろうねぇ」
馬鹿ふたり.

僕らはいつひとりひとりからふたりになるんだろう,なんてね.うっかり考えてしまった時にはその言葉を唱えて.
僕らがふたりなんて言葉を持ち出すのは,ときに戦術的に,ときに祈りを込めて.そんな魔法の言葉.


モノローグと時制については,こちらとかこちらがたぶん関連ページ.

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