長森の話

夕飯は食べてくるよって電話しただけなのに,あとで帰るなり母には「独りで食べてきてんやろ」と切ない顔をされた.正月のことであるからいつもみたいに同窓会で食べて来たと考えても良さそうなものだが母にはお見通しであったのか,そのとき僕はたしかにこの世のはてに立つような気分で,独りで夕食をとってきたのだった.

そばに人がいないわけではないのに,たとえばこの場合は家族であるが,だのに独りでごはんを食べるという行動がどうやら切ないことであるというのを僕はこのときの母の顔を見てはじめて知ったのである.それはONEが発売されたよりも何年か後のことであるので今になってようやく判ったことは,浩平が独り屋上でごはんを食べるというときに長森がわざわざ追いかけてやってくるのは,じつのところ,独りで食べると行儀が悪くなるからだとかではなく,長森という人がありながら独りで屋上で食べようとする浩平の様子は,どこか線が細くて心配するに値することであったからだろう.うちの母だって出来るならば同じことをしたに違いない..

線が細いこと,例えばにぎやかな場所が苦手であったり豊かな彩りよりもなにもないものを選ぶときというのは,心配されるに値することであるらしいのである.そういう人を目にしたとき僕だっていまや心配しないということはないのであるが,そういう気持ちのことだってあるさと思っているものだから体は動かない.いっぽう心底切なそうであったり傍にいてあげたりする人を見ると,そういう得体のしれぬ活動力が世界のにぎやかさや彩りを維持しているのであるなと思われて,そして僕が見る範囲においてそれはたいてい女性である.

(世界はここまでなんだね…)
ぼくは彼女に言った。
(飽きたら、次の場所へ旅立てばいいんだよ)

(どうしてぼくは、こんなにも、もの悲しい風景を旅してゆくのだろう)
(あたしにはキレイに見えるだけだけど…でも、それが悲しく見えるのなら、やっぱり悲しい風景なんだろうね)

(ねぇ、たとえば草むらの上に転がって、風を感じるなんてことは、もうできないのかな)
(ううん、そんなことはないと思うよ)
(そうしてみたいんだ。大きな雲を真下から眺めてさ)
(だったらすればいいんだよ。これはあなたの旅なんだから、好きなことをすればいいんだよ)
(でも、どうしたらいいんだろう。ぼくはいつも見える世界の外側だ)
(まだ、難しいのかな。あたしは感じられるよ。草の匂いを帯びた風が)
(やり方を教えてくれよ)
(うーん……じゃあ,手伝うよ)

(空だけの世界…)
(この下には、何があるんだろうね)
(なんにもないよ)
(そうかな。あたしは、広大に広がる野に、放し飼いの羊がたくさんいると思うよ)
(いや,ずっと空だけが続いてるんだと思う)
(どうして…? 羊を放し飼いにしておこうよ)

ぼくが終わりや悲しみのことを考えたり,なにも感じない,なにもないなんていうとき,彼女はもっと彩りのあるやり方を提案したり,別の見方があることを伝えたり,感じることを手伝ったりするのである.彼女はそんなふうにぼくのことを心配している.

変化すること,いろいろであること,たくさんであること,それら豊饒を善とするものの見方があると思う.そうしたときに,浩平やぼくの傍にいる女性たちの善であることが印象深い話だった.

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