贈答

未来世紀ならまちに出てきた天極堂の葛菓子である.話をするわりには食べたことがなかったのだけど,先日,実家から送ってきたので今こうしてお夜食となっている.

東大寺さんの天極堂を少しゆくと祖母の家である.春に帰った折には手ぶらであるところを母に見とがめられ,その場で果物やケーキを持たされた.お土産といって祖母に渡したけれど誰が買ったものかは顔に書いてあっただろう.帰りしなに八ツ橋をこうてきてくれへんか,と言付かった.初盆には帰るやろ,そのときに.生ではなくて焼いたほう.そうだ,八ツ橋は焼いたに限る.ともあれ,なにが欲しいか先方から言ってもらえるのは有り難く,きっと入門者向けの措置だったろう.

都合が良いことに聖護院八ツ橋は大学の裏である.紙袋提げて奈良へ帰った.自慢するほどのことでないがちゃんと自前のお土産であることが嬉しくて,今年はいつおばあちゃんとこ行くの,帰るなり母に聞いたが,今年はうちの初盆やしいかんつもりやったとかいう.いや,せっかくお土産もって帰ってきたんだからと目的がすり替わりつつ,僕が灯花会を見たことがなかったので,せっかくだから家族みんなで見に行こう,その途中に祖母の家に寄ればいいということになった.

なら灯花会は8月のはじめからお盆にかけての一大イベントで,元となった行事は古いものだが,多くの観光客を集めはじめたのはちょうど僕が奈良にいない間のことである.東大寺へ入るために列をなすなどお正月でも見られないことだ.この日は大晦日同様,大仏殿の窓が開かれて大仏さんのお顔を外から拝むことが出来る.中では読経の声がする.東大寺は昔からBOSEのスピーカーを使っている.

灯花会では一客一灯,訪れる人はひとりにひとつ,東大寺,春日野から浅茅が原,春日大社にかけて,望みの場所へ灯火を置いてゆく.写真は春日野から東大寺を臨む.中央右奥は東大寺の屋根.ここはいわゆる奈良公園の一角である.春に祖母から聞いた笑い話であるが,ある日,中年の女性に道を尋ねられての問答,「奈良公園の入り口はどこですか?」「ここら一帯が奈良公園ですねん」「入るのにおいくらかかりますか」「お金なんかとりゃしません」

蝋燭は水の入ったコップに浮かべる.火が消えてもはしからボランティアの人びとがまた点けてゆく.最終日は公園じゅうが灯火で埋め尽くされる.

僕も一つ.少し離れた見晴らしの良い木の傍へ置いた.この灯を点すときには祈りを込めるそうである.

さて,お土産の顛末は次のとおりである.東大寺へ行く途中,祖母の家に立ち寄って,お供えですと言って紙袋を仏壇へ置いてきた.祖母はなんじゃろな,と思ったそうである.後で電話をかけてきて,そういえばお使いを頼んでたなぁ,あれはわたしが頼んでたもんやさかいお金払わんとあかん,だなんて妙なことになった.なにゆうてんの,あれはお供えやからいいって.もろといて.いや,ちゃんと払わなあかん.いやお供えやから,云々,と押し問答をしつつなんとかおさめた.あの祖母のことだからもしかすると孫からお土産をもらうような隠居であると思っておられないのかもしれなかった.僕がもらってばっかりで.せめて,あと何度のお土産だか.

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