手を繋ぐこと

幼稚園から小学校の頃にかけて,僕の手のひらはふくよかで気持ちいいという評判で,唯一姉による評判ではあったが僕にとっての評判とはそういうもので,そしてよくふにふにと触られていたものだった.ボールもバットも握らない,レゴブロックより重い物を持ったことがない,あと牛乳ばかり飲んでぽちゃっていた運動不足のたまものであるが,愛されるというのは嬉しいものだからこの手のひらは僕の自慢だった.

手のひらについては良くない記憶もある.いつ頃までのことだったかは覚えていないが,母と手を繋ぐことなしに歩くことが出来なかった.母の手が心地良かったという記憶はまるでなくて,ともかく繋いでいなくちゃならないんだという強迫ばかり覚えている.母はいつも手が重いと言っていた.20キロかいくらかある半自走式の塊を引っ張り回すのは確かに大変だったろう.遠足の時などは手を繋いで二列で歩くということがあって,このときも手を繋げと言われればけして離さなかった.そのふくよかな手でぎゅっと握り続けてるものだから汗をかいて相手の女の子は暑くるしいといって怒っていたのであるが,頑固に離さなかった.手を繋ぐとか綺麗に並ぶとか言われた形にこだわり過ぎる子供だった.

中学へ上がると身体が縦に伸び,毎日硬くて重い学生鞄を持ち歩いたものだから,僕の手のひらは男の子みたいな手のひらになっていった.今の僕にとってそれが誰のための手のひらであるのか,どのように嬉しい手のひらであるのかは昔ほどはっきりとは判らない.よって以下は想像の産物である.

手を繋ぐといえば電撃!!イージス5のActIIが思い出される.逆瀬川秀明と佐々巴が事実上の初デートに赴くとき,鴻池琴梨からデート繋ぎをするよう指示される.これは手を繋ぐことが気持ちよりも先に立つのを判ってるわけで,助平なものだなと思った.いや,正確には喜んだ.なんの好意も前提とせずに男女が手を繋ぐことはないわけであるが,手を繋ぐことによっていっそうどきどきしてしまう気持ちよりは手を繋ぐ行為が先行する.気持ちが盛り上がったから手を繋ぐのではなく,盛り上げるために手を繋ぐのである.手順というのはそうでなくては回らないのであるが,当事者にはなかなか気づかれないものなので琴梨のような正確な外野は有り難いと思う.

事態に巻き込まれている当事者,ここではとくに恋愛を言うのであるが,その当事者らしさが薄れて事態が飲み込めてきたとき怠惰がおこる.ストロベリー・パニック!の花園静馬はもはや手を繋ぐことの効用など知り過ぎていて注意を払わなくなっていたからこそ,蒼井渚砂にされた普通でない手の繋ぎ方に不意を突かれ,完全に参ってしまった.多くの時間は静馬のほうが渚砂に触れようとあれやこれやしてくるのであるが,最初の一撃はむしろ渚砂が静馬の手のひらを掴んだことであって,手のひらというのがそれだけの衝撃を持ちうるというところに僕は真っ先に惹かれたのだった.

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