溝口健二「瀧の白糸」(1933)

そんな人情な!

鏡花の話は外科室にしても歌行燈にしても婦系図にしても映画のうえでは人類寄りになって,瞬間たる夢まぼろしが,男と女が距離を縮めたり触れ合ったりする様子として伸長展開される.原作「義血侠血」における白糸と欣様のふたりは魔性とも形容されるのであるが *1,だいたいそういうところは忘れておいて,行間に人の情けが読まれる.行間とは生来,人情を呼び込みやすい隙間ではあるが.

義血侠血において欣様と生涯親類のようにして暮らしたいという白糸の望みは「決してもう他人ではない」という彼の即答によって叶えられるが,そのときふたりの魔性の契る様子がふるっている.

涼しき眼と凛々しき眼とは,無量の意を含みて相合へり.渠らは無言の数秒の間に,不能語,不可説なる至微至妙の霊語を交へたりき.渠らが十年語りて尽くすべからざる心底の磅*(ほうはく)[* 石+薄]は,実にこの瞬息において神会黙契されけるなり.

至微至妙の霊語とか神会黙契とか言葉がやりすぎていて良い.義血という言葉は侠血と被るのですっきりしなかったが,もしかすると義理の血とも読めるのかも知れない.生涯親類のように,と言ってるじゃないか.つまりは,神会黙契された約束上の兄妹ということである.映画では「生涯親類のやうにして」という言葉を採らずに「お前様に可愛がツてもらひたいの」というほうを重く受けて,この不能語,不可説が一晩だけ抱かれるという話に落ちてしまうわけだが,義血侠血でのふたりは兄妹になるからここでこのまま離れ離れになってしまう.それは遠く,金沢と東京であって,判りにくく喩えるならばイギリスと日本くらい離れているということになる.

映画でも白糸のほうが年下であることは変わらないが,妹というよりは我が腹を痛めた母親のように振舞う*2.貧しくても息子をいい大学へ入れて出世させんという母親の鬼気だった.

*1:“花顔柳腰の人,そもそも爾は狐狸か,変化か,魔性か.おそらくは※脂(えんし)[* 月+因]の怪物なるべし.またこれ一種の魔性たる馭者だも驚きかつ慄けり.” 一種の魔性たる馭者,とかさらっと交ぜてきたり,人と魔性ではなく魔性以上同士で比較されるあたりが可笑しい.それじゃあ菊池秀行の魔人である.怪奇外連は時代を超えるというのが面白い.以下,引用部は岩波文庫「外科室・海城発電 他五編」より.

*2:一晩寝てることはさておき

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