とある先生から似顔絵の極意を教わったことがありまして、それは手元を見ずに相手の顔だけ見て描くということ。絵の達者じゃない人というのは自分の描く線のゆるさとか配置のずれとかを目で見てしまってそこでいちいちつまずくので、そんなんよりはもう手元は見ないで描く方がなるほど、相手の顔の感じも描き手のニュアンスもよく捉えた絵が生まれます。絵というのはそういうふうに楽しい。
思いのこもってる絵がいい、と言われる場合、それは必ずしも君にテレパシーが届く、直感としか言えそうもない様子を指すんじゃなくて、他のことに一心なので取り繕うのに注意を払わないから、絵の良いところが失われにくいというのもあると思う。
さて、恋色マリアージュのルリアスティスさんは有名な画家で、直さんは旅館運営一筋で手先が器用とはいえ絵なんて授業くらいでしか描いた風でない。そういう直さんがなんとなく描いた肖像がルリアスティスさんに響くというのは、この人が相手のことしか見てなかったからではないかと、読みました。
【直】「ルリア……ちょっと借りるぞ」
手の付けられていないスケッチブックをひとつ手に取ると、絵を描き始める。
慣れないスケッチに悪戦苦闘しながら、ルリアの姿を自分なりに描いていく。
目の前で寝息を立てているルリア。
初めて出会ったときのルリア。
再会したときのルリア。
そして、僕に勇気を出して告白してくれたルリア。
それら全てと対話するように、僕はひたすら絵を描き続けていた。
とくに脈絡なく肖像は描き始められます。ずっと巻き戻せば彼女がスケッチブックに描く直さんの肖像を見てきたのだけど、この看病の夜、彼女のことを考えているとそれは不意に思い立たれる。ここで、自分なりに描く、という一言は難しい。普段描いてない人に自分の絵のタッチというのはないから、判らないけどなんかやってみるというくらいの意味で、それからこの人、ルリアスティスさんのことしか考えてない。そういう絵。よそおうところがないから、人に見せるのも物怖じしない。
【ルリアスティス】「ぜひ、描いた絵を見てみたいです。お兄様がよろしければ、ですけど」
【直】「ああ、いいよ」
少し照れくさいけど、スケッチブックを手渡す。
【ルリアスティス】「素晴らしい絵だと思います」
【直】「それは褒めすぎだろ」
【ルリアスティス】「そんな事ありません。改めて、絵について考えさせられました」
【ルリアスティス】「上手く描く必要なんてまったくなくて、自分がその絵にどんな思いを込めるのかが大事なんだって」
上手く描く必要がない、とはよく言われる言葉なんだけど、そんなこと言われてもなぁ、どう描けばいいかわかんないよ、というのがよくある反応で。どう描くかについてもその先生からいくつか教えて頂いていて、具体的にここに全部は挙げないけど、上手く描けない道具立てをわざと使う、というのはおおざっぱに言えることです。直さんの、なんとなく描き始めて、ルリアスティスさんのことしか考えてない状態というのは、それはたまたま上手く描けることに気持ちが向いてないので、そんな風に素敵なんだ。
【直】「それと、この絵を描いてるとき、ルリアが言った言葉を何度も思い出してた」
【ルリアスティス】「私の……言葉?」
【直】「自分が好きなものなら、どれだけでも描ける」
【直】「僕も描いているとき、いくらでも描けるような、そんな強い衝動を胸の中に感じたんだ」
そんなこと言われてもなぁ、その2.であるかも知れず。自分のなかにある気持ちが自然と表現されるような言い方は絵心の有る無しとして受け取られちゃいそうで。言葉を補うなら、絵のことを忘れていられるくらい好きなものは、どれだけでも描ける、ということではないかなぁ。中島敦の名人伝じゃないけど、
「ああ、夫子が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたということである。
というとこへ至ったように思える瞬間というのは、好き、というとき普通にありそう。そんな思い入れできるような好きこそ、難しそうで、滅多に生まれないことに思えて、そんなこと言われてもなぁ、どう好きになればいいかわかんないよ、かもだけどね。
あと面白かったのはこういうとこ。幼いころのこと。
【直】「僕も、代わりに何かあげたいけど……何も持ってないや」
【ルリアスティス】「いいよ。私がお礼したかっただけなんだもん」
【直】「そうだ。機会があったら、今度女将さんから教わった礼儀作法を教えてあげるよ」
子供が、である。この人ほかにないねん。直さんのもてなしの心あふれる歓待が沁みる逗留でした。また来ますわー。

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洋風と和風の接続された旅館のモデルは東京の旧岩崎邸かなと思ったけど、写真を探したら三重の旧諸戸邸でした。どちらもジョサイア・コンドルという建築家の設計によるもので、なるほど雰囲気が似るものだね。