長崎俊一「西の魔女が死んだ」

京都シネマ.余裕だろうとのんびりしてたら予想外の満員御礼,立ち見有り.17:10の回まで四条をぶらぶらして待った.

ここのおばあちゃんはまいと話すとき,まいのことぺたぺた触りながらやる.映画ではおさげを交互に引っ張りながら話すのが好みだ.

内容は小説に忠実にみえて,取捨で別の方向へスライドさせてますよ.たばこ,にやり笑い,魔女談義,の三点.

おばあちゃんは孫の前でたばこプカプカやる不良なんだけど,これを大幅カット.あと「にやり」とする魔女笑いもなくなっている,ように見えた.この人の境遇やらはみ出したワルっぷりは芳乃さくらと朝倉純一の祖母に近いのだけど,そういう感じではなくなっている.

自分で見ようともしないのに何かが見えること.妄想と想像の違い,というのはこの人が何度も言い聞かせることなんだけど,これもカット.たぶんこれ,文章で読むと面白いんだけど映画のなかで言葉にすると理が勝ちすぎるんだろう.結果として,鶏小屋が荒らされた後にマイ・サンクチュアリ*1で吹く嵐の意味も変わってくる.梨木香歩のほうでは自分で望まないのに勝手に拾いとってしまう,解釈してしまう薄暗いもの.長崎俊一のほうは理屈の具体化されない風雨で,しかし郵便屋さんという人間が助けてくれる類のもの.

不良なおばあちゃんでエッジを立てたり言葉に依ったりする代わりに郵便屋さんを足して,関わる人間の数の多い,しっとりとした映画にしている.だから,終盤が大きく変わる.

「でも,おばあちゃんだって,わたしの言った言葉に動揺して反応したね」
おばあちゃんはにやりと笑って片目をつぶった.
「そういうこともあります」

梨木香歩のほうは言葉のやりとりが多くて,そういうこともあるだろうと先回りして断っているからここでもそう切り返している.もちろん,ここでにやりと笑う.長崎俊一のほうはにやりと笑わないし切り返さず無言になる.このあと初めてたばこを吸う様子が,むしろおばあちゃんのやるせなさであるのかな,そういう感じで一度だけ登場する.おばあちゃんがまいの言葉に応えられなかったことで,あのとき酷いことを言ってしまったというまいの後悔はより重くのしかかっている.銀龍草*2の話がないのもここでふたりのやりとりを断つため.

ママの「この人はこういう死に方をする」という言葉の有無でおばあちゃんの違いはまとめられる.梨木版は有りで,ママを普通でない気持ちにさせる魔女みたいな死.長崎版は無しで,おばあちゃんみたいなおかあさんみたいな死.

それで,ガラスに残されてた言葉が帯びる,やんちゃさの程度も違ってくる.梨木版は泣き笑いだが,長崎版は切ない.

19:15,上映終了後,ロビーに人が多いのでまだ何かやってるのかとラインナップを眺めたら,19:00からは滝の白糸(生演奏付き)本日限定とあって悔しかった.ひとつ早い回で見れてたらこちらにも間に合ったのだが.

そんなに好きな映画でもないけど劇場で演奏付きというのは機会なさそうだからね.

鏡花物も映画化されると人間が増えたり生々しくなったりする方に振れるのだ.それで映画化とはこういうものなのかと思っている.

*1:まいのサンクチュアリ.裏庭の照美=テル・ミィもそうだけど,ちょっぴり酸っぱいと思う.

*2:おじいちゃんが鉱物好きにせよどうして鉱物の精と呼ぶのかぴんとこなかったが,別名「水晶蘭」であるらしい.ああ.

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