七夕の夜.君に逢いたい

小さい頃は幼稚園やら地域のなにかやらで笹の葉を飾ったものだったけど,七夕の夜に何をお願いしたかは覚えてない.クリスマスのお願いだったら幾つか覚えていて,たぶん,願いがおもちゃになって叶うから.たとえばヘビみたいな形のルービックキューブ(キューブじゃないよなあ),鉄でできた竹馬(竹じゃないよなあ).七夕の願いは手元に残らない.叶わない.クリスマスっていうのはすごいものだね.

あるときのクリスマスプレゼントは野球盤だった.ごひいきの西武がなくてクラウンライターという名前だった.父からはクラウンが西武なんだと教わったけれど,その意味は長らくよく判らなかった.球団名というのは不意に変わるものなのだと漠然と感じていた.そもそも西武が所沢の球団ということもよく判ってなかったと思う.西武の試合は大阪球場で観るものだったから,所沢というのはどこかかけはなれたお話だった.それに,野球盤の向こうに大阪球場を透かしてみることはなかったし,大阪球場の向こうに所沢の西武球場を想像したこともなかった.それはぜんぶ切り離されていた.大きなもの,向こうがわにあるものを想像するのは詩的なことで,僕は詩的な子供ではなかった.ぼんやりで,だけど簡単な子供時代で良かったさ.僕はそんな風だったから,涼宮ハルヒが小学生のころに野球場の5万人から1億数千万人を想像してしまったというのはそうした詩情のほとばしりで,もうそこから彼女,ぼんやりではいられなくなったのだなと思わずにいられない.

キョンという人は,会って一週間ばかりでそのへんに勘づいてる.校庭落書き事件の概要を聞いただけで,キョンはそのときハルヒがどんな風にラインカーを用意したかとかどんな顔してたかとか細々と想像するんだ.それはどこか思い詰めた悲壮感に溢れていたんじゃないかってさ.それが「涼宮ハルヒの憂鬱」の冒頭で僕らが知ることのできる,ハルヒと出会ったばかりのキョンのひとだ.ユー,結婚しちゃいなよ.

後に掲載された「笹の葉ラプソディ」はこのときキョンが想像したハルヒの姿をそのまま引き伸ばしたものである.だから,作中での時間の流れがどうであろうが,それは既にキョンとともに僕が引き受けていたハルヒの悲壮感を,あらためて一編のお話として追いかけることだ.キョンが過去にハルヒと会っていたかどうかはあまり問題じゃなくて,僕が高校生のハルヒと出会って,彼女の悲壮感を漏れ知って,それをお話として引き伸ばして想像してしまう.その順序のほうが大事だ.

そうだよ,想像はしてしまうものであって,因果は関係ない.

笹の葉ラプソディの前半が好きなんですよ.このむすめ,いつもシャーペンとかで背中を攻撃してくるんだよっていう,背後をとられてる存在感.ヤブ蚊に刺されて服のなか掻いてもらってる様子も血色豊かでさ.そういう彼女がいるっていう気配,肉の重さや脂肪分みたいなとこと,16光年,25光年先への想像とが繋がってて,どちらからも手をはなすことが出来なくって引き裂かれてるところが「憂鬱」以来の魅力であると思います.

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫)

連載当時はベガやアルタイルに向けて笹の葉を飾るっていうのが楽しそうで,だけどなんでみんな楽しそうじゃないんだって切なくなってた.店頭で笹の葉ラプソディをアニメにしたのが流れてるのを見かけて,また切なくなって,だけど読み直してみようと思って文庫にまとめられていたのを買った,そのあと憂鬱をつばさ文庫版で読み直した.せっかくだからアニメ版の笹の葉も見てみたら,前半のやりとりが省略されていて残念だった.どちらかといえば後半のハルヒと別れた後の話のほうがあんまりいらないと思うのだ.

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